これまであまり真面目に論じてこなかったが、芥川龍之介にもそれなりの天皇論、維新観というものが勿論ある。あるけれどもなかなか指摘されてこなかった。
これは芥川の言ではなく、大久保湖州の『家康と直弼』のそのままの書き抜きではあるが、わざわざ書き抜いたからには、ここに芥川の意思が働いていることにはなろう。
芥川は批判のために引用したのではなく、この文章を賛美しているのだ。そこで天の声と書いてみる芥川のセンスが光る。この作で芥川は天皇を批判して居ない。ただ時の権力者に担がれる朝廷という見立てを、大久保湖州という埋もれた歴史家を面白がる形で引用しただけである。しかしこの見立てはまさに天皇が摂政によって担がれ、形骸化していた時代に於いてはかなり剣呑なものなのではなかろうか。社長が会長になり、相談役や顧問になることほど無駄なことはなかろう、とは芥川は書いていない。ただ大久保湖州を褒めているだけだ。
芥川は今更三韓征伐の象徴的存在が一円紙幣の肖像画として持ち出されたことを批判して居ない。婦人参政権論者を批判してはいない。ただ温故知新の例えとして持ち出したに過ぎない。
芥川は天皇の神聖を笑ってはいない。ただ史上の人物はみな人間なのだと当たり前のことを書いているだけだ。しかしそう思わない人を批判している。史上の人物に人間らしさを見つけた大久保湖州を褒めている。ただそれだけだ。
これはあくまで横光利一の見立てであり、芥川が政治的だったかどうか私には解らない。絶対に解らない。