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芥川龍之介の『女』をどう読むか① 恥を知らない太陽の光は

 満員電車から吐き出された人の群れを俯瞰から眺めた時、その一人一人の人間が母と父との、あるいは母と誰かとの性行為の結果として現に存在するのであり、その過程において一つ一つの産道から排出されたことを想像してみると、よくもまあこんなにもたくさんの、あるいは明らかに過剰な人間が存在してしまつているものかと呆れてしまう。自分自身も間違いなくその一人一人であることを忘れ、これは大変にご苦労なことだと思ってみる。

 全ての人間の存在が、たまたまできあがったというわけではなく、むしろ何か必死な、むきになった、激しいことどもがその背後にあり、その結果として女は母になるのだろう。黒く硬直した乳首や自己免疫機能としての悪阻、つまり我と我が子とが共存するための儀式を経て、便秘し、脱肛する母は、やがて晴れやかに乳母車を押す。

 乳母車の中身は虚ろな目をした人形ではない。そこに母の恐ろしさがある。

 雌蜘蛛は真夏の日の光を浴びたまま、紅い庚申薔薇の花の底に、じっと何か考えていた。
 すると空に翅音がして、たちまち一匹の蜜蜂が、なぐれるように薔薇の花へ下りた。蜘蛛は咄嗟に眼を挙げた。ひっそりした真昼の空気の中には、まだ蜂の翅音の名残りが、かすかな波動を残していた。

(芥川龍之介『女』)

 ありったけの緊張感を漂わせて書きはじめられた『女』は、既にこれから禍事(まがごと)が始まることをそっと告げている。庚申薔薇の「庚申」とは、「庚(かのえ)」「申(さる)」庚申とは旧暦で約60日に一度めぐって来る凶日のことだ。庚申薔薇の名前の由来も花が庚申ごとに長期間咲き続けるという意味で名付けられている。

庚申の日には、人の体内にいる三尸(さんし)の虫が、その体内を抜け出して天帝にその人の罪過を告げると信じられ、祟(たたり)を恐れ、一晩中寝なかったり、男女同床を避けたり、婚姻をしないようにしたのです。
「庚申の夜に身ごもった子は盗賊になる」という俗信も生まれ、 「五右衛門が親 庚申の夜をわすれ」(庚申の夜の営みで大泥棒が生まれたという戒め)という句まで残されています。

 雌蜘蛛はいつか音もなく、薔薇の花の底から動き出した。蜂はその時もう花粉にまみれながら、蕊の下にひそんでいる蜜へ嘴を落していた。
 残酷な沈黙の数秒が過ぎた。
 紅い庚申薔薇の花びらは、やがて蜜に酔った蜂の後へ、おもむろに雌蜘蛛の姿を吐いた。と思うと蜘蛛は猛然と、蜂の首もとへ跳りかかった。蜂は必死に翅を鳴らしながら、無二無三に敵を刺さそうとした。花粉はその翅に煽られて、紛々と日の光に舞い上った。が、蜘蛛はどうしても、噛みついた口を離さなかった。

(芥川龍之介『女』)

 ここにあらわれた二つのセックスは、たちまち二人の女を母にする。蜂にかき回された雌蕊は花粉にまみれ、庚申薔薇は確かに花びらを開いた。雌蜘蛛は蜂に毒を飲ませる。蜜蜂は、働き蜂は男だ。

 争闘は短かった。
 蜂は間もなく翅が利かなくなった。それから脚には痲痺が起った。最後に長い嘴が痙攣的に二三度空を突いた。それが悲劇の終局であった。人間の死と変りない、刻薄な悲劇の終局であった。――一瞬の後、蜂は紅い庚申薔薇の底に、嘴を伸ばしたまま横たわっていた。翅も脚もことごとく、香の高い花粉にまぶされながら、…………
 雌蜘蛛はじっと身じろぎもせず、静かに蜂の血を啜り始めた。

(芥川龍之介『女』)

 伸ばしたままの嘴はペニスの比喩であろう。そんな余計なものを受け入れる生易しい産道などどこにも存在しないのだ。そうして空しく嘴を振り回しているその瞬間にも、巨大に膨れた女王蜂は勝手にぼこぼこ卵を産み続けている。
 そして確かに女は男を仕留めた後に静かにその血を吸うものだ。

 恥を知らない太陽の光は、再び薔薇に返って来た真昼の寂寞を切り開いて、この殺戮と掠奪とに勝ち誇っている蜘蛛の姿を照らした。灰色の繻子に酷似した腹、黒い南京玉を想わせる眼、それから癩を病んだような、醜い節々の硬まった脚、――蜘蛛はほとんど「悪」それ自身のように、いつまでも死んだ蜂の上に底気味悪くのしかかっていた。
 こう云う残虐を極めた悲劇は、何度となくその後繰返された。が、紅い庚申薔薇の花は息苦しい光と熱との中に、毎日美しく咲き狂っていた。――

(芥川龍之介『女』)

 そう、よくもまあと呆れるほどのこんなにもたくさんの、あるいは明らかに過剰な人間が存在してしまっていることも、この地上に草花が咲き、生き物が繁殖していることも、近所のおっさんが路上喫煙していることも、みな恥知らずの太陽の所為なのだ。太陽がなければ、地球に生命は生まれない。人類の文明と言ってみてもそれは所詮太陽の戯れに過ぎないものなのだ。太陽は恥を知らない。恥を知っていてはあんなことやこんなことはできまい。この世の出来事全てが駅前の巨大スクリーンに映し出されて構わないものならば、太陽を恥知らずとは呼べないだろうが、生憎そこまで許されるほど人類の文明はお上品なものではない。
 花は生殖器である。息苦しい光と熱との中に、毎日美しく咲き狂っていた紅い庚申薔薇の花は、ぱっくりと口を開けた生殖器なのだ。それはやはり恥知らずの太陽に照らされてこそ存在する。
 まさにこれは芥川の「太陽肛門」ではないか。雌蜘蛛は生殖器の中で肛門の皴のように巴卍の見栄を切る。

 その内に雌蜘蛛はある真昼、ふと何か思いついたように、薔薇の葉と花との隙間をくぐって、一つの枝の先へ這い上った。先には土いきれに凋んだ莟が、花びらを暑熱にねじられながら、かすかに甘いにおいを放っていた。雌蜘蛛はそこまで上りつめると、今度はその莟と枝との間に休みない往来を続けだした。と同時にまっ白な、光沢のある無数の糸が、半ばその素枯た莟をからんで、だんだん枝の先へまつわり出した。
 しばらくの後、そこには絹を張ったような円錐形の嚢が一つ、眩いほどもう白々と、真夏の日の光を照り返していた。 

(芥川龍之介『女』)

 土いきれに凋んだ莟とは、誰にも生殖器を間開かぬまま老いた女か、それでもまだ花びらを暑熱にねじられながら、かすかに甘いにおいを放っていたとは何と淫靡な眺めであろうか。ヤクルトおばさんと呼ばれることにはもう慣れましたと言いながら、まだ小さいパンツをはいているヤクルトレディのようではないか。その石女にからめて巣を張る雌蜘蛛のなんと意地の悪いことか。素枯た莟と言われた石女のなんと哀れなことか。

 蜘蛛は巣が出来上ると、その華奢な嚢の底に、無数の卵を産み落した。それからまた嚢の口へ、厚い糸の敷物を編んで、自分はその上に座を占めながら、さらにもう一天井、紗のような幕を張り渡した。幕はまるで円頂閣のような、ただ一つの窓を残して、この獰猛な灰色の蜘蛛を真昼の青空から遮断してしまった。が、蜘蛛は――産後の蜘蛛は、まっ白な広間のまん中に、痩せ衰えた体を横たえたまま、薔薇の花も太陽も蜂の翅音も忘れたように、たった一匹兀々と、物思いに沈んでいるばかりであった。

(芥川龍之介『女』)

 母は唯一完結した存在だ。薔薇の花も太陽も蜂の翅音も忘れられよう。母は年間行事予定表も売り上げノルマもミッションカスケードもタイムカードも忘れ、職場を離れることができる。そんなものは全て母にとっては余計なもの、そもそも何の意味もないものだからだ。 

 何週間かは経過した。
 その間に蜘蛛の嚢の中では、無数の卵に眠っていた、新らしい生命が眼を覚ました。それを誰より先に気づいたのは、あの白い広間のまん中に、食さえ断って横たわっている、今は老い果てた母蜘蛛であった。蜘蛛は糸の敷物の下に、いつの間にか蠢き出した、新らしい生命を感ずると、おもむろに弱った脚を運んで、母と子とを隔てている嚢の天井を噛み切った。無数の仔蜘蛛は続々と、そこから広間へ溢れて来た。と云うよりはむしろその敷物自身が、百十の微粒分子になって、動き出したとも云うべきくらいであった。

(芥川龍之介『女』)

 行ってらっしゃい。お仕事ご苦労様です。満員電車から吐き出されてくる一人一人の命は、もっと生々しい、もっとどろどろした、もっと強烈なものから溢れてきた存在だ。その背後には無数の母がいる。そこから押し出されてきたのだ。

 仔蜘蛛はすぐに円頂閣の窓をくぐって、日の光と風との通っている、庚申薔薇の枝へなだれ出した。彼等のある一団は炎暑を重く支えている薔薇の葉の上にひしめき合った。またその一団は珍しそうに、幾重にも蜜のにおいを抱いだいた薔薇の花の中へまぐれこんだ。そうしてさらにまたある一団は、縦横に青空を裂いている薔薇の枝と枝との間へ、早くも眼には見えないほど、細い糸を張り始めた。もし彼等に声があったら、この白日の庚申薔薇は、梢にかけたヴィオロンが自おのずから風に歌うように、鳴りどよんだのに違いなかった。

(芥川龍之介『女』)

 イヤフォンを外してみれば、たちまち一人一人が鳴りどよんでいるのが聞こえる筈だ。無言の人の咳払いや溜息ばかりではない。誰かが誰かに何事か囁く。その一人一人の音が無数に重なり喧噪となる。
 数、それが問題なのだ。

 しかしその円頂閣の窓の前には、影のごとく痩せた母蜘蛛が、寂しそうに独り蹲くまっていた。のみならずそれはいつまで経っても、脚一つ動かす気色さえなかった。まっ白な広間の寂寞と凋んだ薔薇の莟の匂いと、――無数の仔蜘蛛を生んだ雌蜘蛛はそう云う産所と墓とを兼ねた、紗のような幕の天井の下に、天職を果した母親の限りない歓喜を感じながら、いつか死についていたのであった。――あの蜂を噛み殺した、ほとんど「悪」それ自身のような、真夏の自然に生きている女は。

(芥川龍之介『女』)

 ほとんど「悪」それ自身のような女は、また恥知らずな太陽が産み落とした生き物だ。駅のホームで立ったままコンビニのおにぎりを食べている若いOLもやがて母になるのだろう。カートで運ばれている保育園児も。あるいはまだ若いヤクルトレディも。彼女らが母になるためには、おそらくほとんど「悪」それ自身のようにならなくてはならない。真夏の太陽に花びらを間開く庚申薔薇のように淫靡にならなくてはならない。そして「庚(かのえ)」と「申(さる)」がどちらも「金」を意味するように、二言目には「金、金」と言わざるを得ない。
 大正九年四月この『女』は発表された。大正九年三月三十日、芥川龍之介には長男・芥川比呂志は生まれている。大正九年の干支は庚申である。



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