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夏目漱石の『こころ』をどう読むか⑧ BL論は馬鹿丸出し

BL論


 今回もどうしても厳しい内容になってしまっています。何と言いますか、マイナンバーは11桁だとツイッターで宣言する人がいます。これは事実ではないでしょう。そういう場合、私は違いますよと言います。マイナンバーは12桁です。それは明確な違いですよね。その程度のことを指摘されて誹謗中傷されたと騒がれても困ります。事実なんですから。

 事実を認めることのできない気の弱い人は読まないでください。『こころ』=BL論というのは外国人の感想文にも多く見られる話で、高橋源一郎のラジオ番組で島田雅彦がその辺りを浅く論じていましたが、今更得意げに指摘するようなことでもないし、作品全体としての意味付けも曖昧なので、これで本当に文学者か、と疑問を覚えずにはいられませんでした。少しは期待もしていたので実に残念でもありました。
 作中では、
・冒頭の海水浴で全裸の「私」と先生が戯れる
・先生は「私」にこう説明する

「恋は罪悪ですか」と私がその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
 私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上る楷段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものが全く性質を異にしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」
 私は変に悲しくなった。(夏目漱石『こころ』)

 …つまり先生は「異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来た」という解釈をしているのですが、「私」にはそういう自覚がありません。つまり二人の意見は必ずしも一致していません。おそらく『坊つちゃん』の「おれ」とうらなり君のような前世の因縁、あるいは副意識、第二意識を意識して書いているのでしょうが、ここで「私」が全裸でオチンポを見せびらしながら近づいてきたかどうかということがポイントになります。あるいはその時どういうサイズ感だったのかということですね。その前に「私」は西洋人の猿股にフォーカスしていますね。それから全裸ですから先生が「誤解」しても仕方ありません。
 漱石自身、和辻哲郎だけではなく弟子たちから「会いたい、会いたい」と恋文のようなものを貰っていたようで、そうした若い男たちからの怪しい人気もあったことから、この先生と「私」の性的な関係性もそういうものであったととりあえず考えてみても良いかもしれません。
 無論先生も突然立小便をしてペニスを見せつけるようなことをしていますし、その関係はプラトニックと言いながら、観念の上では血潮を浴びせかけあうようなものなので、BL的ではないとは言えません。BL的な見え方も確かにあるのです。
 しかし単にBLであると言ってしまっている人にはこの『こころ』の結末、先生の全肯定、先生が愛すべき人であり、人間を愛し得る人でありつつ「それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人」というロジックが理解できていないことになります。繰り返しますがこのロジックは「先生は西洋人も日本人も男も女もプラトニックに愛し得るが、個人を抱きしめることはできない人」という意味に展開されます。これは落ちですね。先生は人間の罪の感じに苦しみ続けて死に、なお人間を愛し得る人として「私」に認定されたことになります。「私」の認定なので、私には飛躍が感じられますが、私の勝手な感想でロジックを捻じ曲げても仕方ありません。
 私が飛躍と感じる部分は、Kの生まれ変わりとしての「私」が受け取ったものがもう少し具体的になれば埋められるようにも思います。まず、

・先生は生涯Kの黒い影を静に見て苦しみ続けた(セックスをしなかった)
・そのことで静も淋しい思いをし続けた
・しかし実はKは先生の恋を知りつつ出し抜いたので先生の罪はない
・「私」は少しは年を取ったものの無垢な静を手に入れた

 こうした前提を置けば、自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人であり、愛すべき人というところまでは腑に落ちますね。プラトニックラブの人だとまでは言えます。またKに対する罪悪感はある意味で愛でもありますかね。しかし人間を愛し得るというところまではもう少し届かない感じがします。
 人間の罪の感じを一人で引き受けて死に、人類愛を語ればもう救い主、イエス・キリストですが、浅いBL論はそうした全体を見渡した解釈を拒否した稚戯です。先生の遺書を見ると、「私」がKの生まれ変わりであるという仄めかしに先生自身は気がついていなかったことになります。先生は誤解したまま死にますが、読者迄真似をしなくてもいいと思います。
 しかしBL論者は馬鹿というつもりはありません。
 途中まで漱石はミスリードさせるようにあれこれ工夫しているのです。西洋人もそうですね。静の誤解もそうでしょう。またこんなロジックも差し出します。

「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」(夏目漱石『こころ』)

 この「天下にただ一人しかない男」と真砂町事件と小刀細工のお祝いを組み合わせると「あの世には別の男がいる」可能性が論理的に現れます。また「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。」と「恋に上る楷段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」を組み合わせると「男なら知っている」という可能性が論理的に現れます。
 論理的に読めばBL論にも理があるのです。しかし先生とKの交わりは明示的には書かれませんでした。「ちょうど好い、やってくれ」の場面で股間が押し当てられているだけです。また金銭的な扶養-被扶養関係に入ることでKは先生のコレになったとは言えます。言えますが言い過ぎはいけません。それはあくまで『明暗』の世界です。畳の上で大の字になって反り返った小林をイメージして頬の内側を火照らせる津田がBLです。


不整合

 夏目漱石作品だから細部にわたって完璧ということはありません。たとえば、

「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽だが。君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
「中位に見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。(夏目漱石『こころ』)

私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い処に、私の懐かしみの根を置いていた。(夏目漱石『こころ』)

 ここには一見不整合があります。後者は前世のイメージ、前者は現世のイメージだ、とまで解釈してしまうとさすがに都合の良い深読みになってしまうのではないかと思います。

 ここは無理に複雑にしないでも解釈可能です。「案外」もここでは軽い意味でしょう。「心丈夫のようで少し滑稽」なので強い人と言わせたいところに、善人・悪人と両極端な見方をしがちな若者が「中位」と言ったので「案外」、その程度に理解していいでしょう。逆に「私」が何故「中位」と言ったのかと言えば、目上の人に「弱い人」と言えない、という程度の事でしょう。

「今日は駄目です」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。(夏目漱石『こころ』)

 その上でやはり「懐かしみの根」と二回現れる懐かしみは偶然ではなく、やはり漱石の意図という事になります。懐かしみが一回なら、「この間出会ったばかりなのに懐かしみなんて変だよな。ここは漱石の書き損じだね」と言われても仕方ありませんが、懐かしみは二回出てきますのでもう書き損じや不整合ではありませんね。ロジックです。「私」が昔の先生を何だかわからないけれど知っているというロジックです。生まれ変わりなんてそもそも非整合だと言われてしまうと困りますが、『明暗』では生きたままの生まれ変わりなど珍しくないとまで言われますね。

 私自身は生れ変りなんてそもそも信じていません。人間は死ねばそれまでだと思っていて、仏教は大嘘だと思っています。しかし小説を読むという事は、自分の思想に作品を押し込めることであっては詰まりませんね。いろんな考えを認めなくてはなりません。

微妙なところを整理する


 今回はちょっときわどいところをやってみましょう。ざっくり言ってしまえば同じようながら、明確に違いがあるとしたらどういう事なのかと考えながらこの部分を読み直してみてください。

 私は不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でその宅へ出入りをするのではなかった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ尊むべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際ができたのだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚していなかった。それだから尊いのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい眼で研究されるのを絶えず恐れていたのである。(夏目漱石『こころ』)

 この「冷たい眼で研究される」のが、いわゆる「探偵」の対象となることですね。「私」は「何となく」でも「研究するつもり」でもなく先生に近づいていくのですが、そこがなかなか伝わりません。そこに明確な理由を求めると「懐かしみ」ということになるわけですが、ここでもう一つ「自分の態度を自覚していなかった」「それだから尊い」という一見よくわからないロジックが展開します。
 また古語の使われる「私はただそのままにして打ち過ぎた。」の意味もぼんやりしたもので、この一節はもし試験で問えばかなり難度が高いものであると思われます。
 やはり「探偵的に研究する魂胆でないから尊い」と大雑把に言えます。しかしそれだけでは「同情の糸」の意味が解りません。「私」は先生に懐かしみから近づきます。墓の謎は「打ち過ぎ」、つまりそのままにして過ぎてしまいます。で、先生との間の「同情の糸」、これが哀れみではないということは解ると思います。ではシンパシーでしょうか。最終的に「先生の遺書」によって、先生は「私」をKの生まれ変わりとは認知していないことが解ります。先生の側は何故か淋しそうに見えてぐいぐい迫ってくるただの青年と「人間らしい温かい交際」をしていたのだという理屈になります。これが「今考えると」という現在の時点からの考えだとすると、今度は「私は想像してもぞっとする。」が解らなくなりませんか。

【問① 】「私は想像してもぞっとする。」のは何故か? 

 何しろこの時点で先生は既に死んでいます。「私」の無意識は先生の死を少し引き伸ばしただけであり、先生を殺したのは「私が真面目にたった一人になる覚悟を決めたから」だと言えます。先生の死を引き延ばしたことで「ほっとする」ぐらいの感覚は解ります。しかし逆に「先生の死を引き延ばしできなかったと思うとぞっとする」…という理屈は微妙に変でしょう。ぞっとするのは「二人の間を繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまった」ら起こりえなかったこと、その「なかった事態に」ぞっとしているので、非常に乱暴な言い方ですが、先生が死ななかったらぞっとするというように解釈できてしまうのです。
 これはどういう理屈でしょうか。「先生が死ななかったらぞっとする」などという解釈がこれまであったでしょうか。

 あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった。それで他日を約して、あなたの要求を斥けてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。(夏目漱石『こころ』)

 こう書かれた遺書を読み、すがすがしく先生を全肯定する「私」の態度の中にはみじんも罪悪感がありません。ここまではいいですよね、なんにせよ先生が死んでからずいぶん時間が立つのでその死因はどうでもいい?
 先生の罪悪感、人間の罪の感じは生涯消えませんが、「私」とは「時勢の推移から来る人間の相違」「あるいは箇人のもって生れた性格の相違」があるから、先生の死の原因が「私」の決心にあることを「私」が気にしないのは当然である?
 いや、気にしないどころかむしろ先生の心臓を破って、その血を顔に浴びせかけられたことが誇らしげですらありませんか。和辻哲郎ならそうでしょうね。先生を殺しても独り占めできれば嬉しいでしょう。しかし書かれている部分で、この【問①】「私は想像してもぞっとする。」のは何故か? に【答え①】がありますか。
 その答えはここにあります。


 夏目漱石がずっと自分の生まれた年にひっかかり『道草』ではついにその疑惑をパズルにしてしまいましたね。そのあたりのことが曖昧な人は小林十之助が最近書いた二三冊の本を読んでください。これまで『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』などにおいても繰り返されていたこの根深いテーマは『こころ』でもちらりと顔をのぞかせることになりますね。

「私は淋しい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」
 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳ですか」といった。
 この問答は私にとってすこぶる不得要領のものであったが、私はその時底まで押さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経たないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出るや否や笑い出した。
「また来ましたね」といった。
「ええ来ました」といって自分も笑った。(夏目漱石『こころ』)

 ここも意味が解らないところです。「君はいくつだね?」「二十三です」とはやらないわけです。これを問答として「すこぶる不得要領のもの」にしてしまうのはどうも考案めいていませんか。『こころ』を読んで「すらすら読めた」という人は本当に解っているのでしょうか?
 
 兎に角お互いに質問に質問で返していますから、質問の意味をずらずらっと書いてもらっていいですかね。私には無理です。
 一つのアイデアとしては「私」の年齢が解ると「私」が先生を頻繁に訪ねてくる理由が解るんじゃないかと読者に思わせようとしている、とは考えられますね。アイデアですよ。答えではありません。これは殆ど三島由紀夫の『豊饒の海』です。もし「私」の生まれた日がKの死んだ日の四十九日後なら先生はどう思うかと読者に問うている感じがします。これはあくまでも感じです。

 しかしこんな訳の解らない会話は公案として解くより他に手がないように思います。そうでないならやはり『坊っちゃん』『三四郎』に始まり『道草』で解かれる生まれ年の曖昧さがなぞられていると、軽く受け取っても良いでしょう。


 


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