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蓮實重彦の漱石論について① 確証バイアスとしての横たわる漱石

 漱石と言えば時代と女だろうという既成の漱石論に異を唱え、漱石をやり過ごす、あるいは漱石に不意打ちを食らわせると息まいて蓮實重彦が試みたのは、漱石のコードを無視し、作品の中に現れる言葉やふるまいを表層的に論ってみる事だった。それは漱石を「明治の一知識人」という枠組みに押し込め、登世という嫂との関係において漱石作品を解体する江藤淳の漱石論に不意打ちを食らわせるものでもあった。漱石のコードを無視し、作品の中に現れる言葉やふるまいを表層的に論ってみる事にどんな価値があるかという根本的な、本質的な議論はさておき、その遥か手前の問題、表層的であるかどうかという以前に、基本的な読みの問題として、果たして蓮實重彦が過剰なる何ものかと荒唐無稽な遭遇を体験しうる読解力の水準にあるのかどうか、その程度のことを具体的に見ていこう。

 例えば蓮實重彦は「横たわる漱石」と書いてみる。なるほど夏目漱石作品の登場人物がしばしば横たわっていると読んでいる訳だ。しかし夏目漱石は後の世に誰かが表層的な読みに留まると宣言して「横たわる漱石」と書くことを予見して罠を仕掛けていた。蓮實重彦はまんまとその罠にかかったに過ぎない。

 彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中から両手を出して、大きく左右に開くと、左側に男が女を斬っている絵があった。彼はすぐ外の頁へ眼を移した。其所には学校騒動が大きな活字で出ている。代助は、しばらく、それを読んでいたが、やがて、惓怠そうな手から、はたりと新聞を夜具の上に落した。(夏目漱石『それから』)

 確かに横たわっているように見える。しかしよく読むと新聞は代助の顔ではなく夜具に落ちている。新聞は代助の顔の真上にはなかった。真上に新聞があれば代助は暗闇でも文字が読めることになる。手首を捻ったとも書かれていない。つまり代助は強靭な腹筋力を駆使し、体を斜めに起こして新聞を読んでいたことになる。その姿勢は通常横たわっているとは言われない。何と呼ぶかは別にして妙な姿勢だ。初めてそんな光景を目にしたら、何ものかと荒唐無稽な遭遇を体験したと感じるのではなかろうか。

 二三分して、細君は障子の硝子の所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿を覗いて見た。夫はどう云う了見か両膝を曲げて海老のように窮屈になっている。そうして両手を組み合わして、その中へ黒い頭を突っ込んでいるから、肱に挟まれて顔がちっとも見えない。(夏目漱石『門』)

 宗助は両膝を曲げて海老のように窮屈になっている。この姿勢は通常横たわっているとは言われない。何と呼ぶかは別にしてやはり妙な姿勢だ。代助の姿勢に意味があるかどうかは別にして、宗助の姿勢はいつしか水子を連想させないわけにはいかない。無論、漱石のコードを無視して表層に留まりたいという蓮實重彦にとって、水子云々はナンセンスな言いがかりに過ぎない。両膝を曲げて海老のように窮屈になっている姿勢を通常は横たわっているとは言わないというところまでは認めてもらうしかない。

 それから日はすぐくれる。くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽きたから、寝られないまでも床へはいろうと思って、寝巻に着換えて、蚊帳を捲くって、赤い毛布を跳ねのけて、とんと尻持を突ついて、仰向けになった。おれが寝るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖だ。わるい癖だと云って小川町の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込こんだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚ぐな事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。下宿の建築が粗末なんだ。掛かケ合うなら下宿へ掛ケ合えと凹ましてやった。この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと倒たおれても構わない。なるべく勢いよく倒れないと寝たような心持ちがしない。ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。(夏目漱石『坊ちゃん』)

 漱石はあたかも蓮實重彦をからかうように「おれ」に尻もちをつかせて勢いよく倒れさせる。この動作も基本的には「横たわる」とは言わない。夏目漱石作品において「横たわる」のはむしろ「自分の未来の運命」(『彼岸過迄』)であり、「花やかなロマンスの存在」(『こころ』)であり、「思想界の活動」(『三四郎』)であり、「一種の特別な事情」(『それから』)なのである。

 津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介なこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙てた。するといったん緒口の開いた想像の光景シーンはそこでとまらなかった。彼を拉っしてずんずん先へ進んだ。彼は突然玄関へ馬車を横付にする、そうして怒鳴り込むような大きな声を出して彼の室へ入ってくる小林の姿を眼前に髣髴した。
「何しに来た」
「何しにでもない、貴様を厭がらせに来たんだ」
「どういう理由わけで」
「理由も糸瓜もあるもんか。貴様がおれを厭がる間は、いつまで経たってもどこへ行っても、ただ追っかけるんだ」
「畜生ッ」
 津田は突然拳を固めて小林の横ッ面つらを撲らなければならなかった。小林は抵抗する代りに、たちまち大の字になって室の真中へ踏ん反り返らなければならなかった。
「撲ったな、この野郎。さあどうでもしろ」(夏目漱石『明暗』)

 こういう動作も「横たわる」とは言わない。蓮實重彦は夏目漱石作品の登場人物たちが横たわるさまを見つけ出しては、いつしかそこに「オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿」(『草枕』)を通して死、あるいは自死のイメージを与えたがっているようだ。それは実に巧妙なやり方に見えるが、漱石には自己抹殺の願望などなく、人生など自殺するほど値打ちがあるものではないと考えていたのは確かだ。

「奥さん、お宅の財産はよッぽどあるんですか」
「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
 奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
「教えて上げるほどないからでしょう」
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、宅へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」
 先生は庭の方を向いて、澄まして烟草を吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかった。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでも宜いとして、あなたはこれから何か為さらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」
ごろごろばかりしていやしないさ
 先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。(夏目漱石『こころ』)

 先生も文句を言っている。ごろごろばかりしているわけではないのだ。ちゃんと本も読んでいる。それを「横たわる」「横たわる」また「横たわる」と言われてしまうと、流石に気分も悪かろう。

 こうして見ていったとき、蓮見重彦が夏目漱石作品に仕掛けようとした楽天的な抽象性は最早いかにもいかがわしいものに置き換わってはいまいか。それも、最も素朴な読解力の水準に達していないという理由によって、批評やら「知」やらというこけおどしの仮面が剥がされたのだから、笑ってばかりもいられない。しかしこのことは何度繰り返してもいいだろう。蓮實重彦ただ一人が最も素朴な読解力の水準に達していないわけではない。護謨毬が天井を貫通し、延岡が山奥にある理由を誰一人説明できないのだから。ただ今回は、蓮實重彦に犠牲になって貰っただけに過ぎない。これは近代文学の問題でもあり、国語教育、国語教科書の問題でもある。

 この文章を読み、過剰なる何ものかと荒唐無稽な遭遇を体験した方が一人でも現れれば幸いである。しかし荒唐無稽な遭遇を体験したら普通、続けて何冊か本を買うよな。買ってくれってリンクを張っているのだから。買わないってことは解らないのか。小銭がないのか。それは国語教育の問題ではなく日本の貧困問題だ。

【付記】

 ……で書いた通り、鏡子夫人が漱石に睡眠薬も盛っていたとするならば「横たわる漱石」という言葉は別の意味を持ってくるような気がする。それは「眠らされる漱石」であり、「目が覚めない幸せな一郎」のようでもあるからだ。「三四郎はようやく安心して、下宿へ帰って、すぐ寝た。」「三四郎は母から来た三十円を枕元へ置いて寝た。」「夜中からぐっすり寝た。」「ああ眠かった。いい心持ちに寝た。おもしろい夢を見てね」と頭の悪くない時期の『三四郎』の中の人物はやはり眠らされるように寝ている。睡眠薬を飲まされていた時期が正確には何時から何時まで、どのくらいの量なのかは分からないが、簡易なエピソードとしては香日ゆらの『先生と僕 夏目漱石を囲む人々 作家篇』で紹介されている。

 これは夏目漱石という作家が負荷なき自己ではありえず、さまざまな要素で形成されたのだと再確認できる面白い四コマ漫画集だ。ただ文字の情報量もかなり多いので、漱石ファンなら楽しめるものだろう。作品論ではないのであからさまな事実誤認は発見できず、むしろ中村是公との関係性などはなるほどと合点がいった。作品論ばかりやっていたのでいい息抜きになった。私の堅苦しい作品論に辟易とした人には是非お勧めしたい。『青春篇』もある。「夏目先生と門下たちの背比べ」は『三四郎』の読みに役立つ要素もあるかもしれない。

 買わんか? 

 なんでや?


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