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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか34 神様は全裸だ

 昨日私は、『歯車』の主人公「僕」に「芥川龍之介」というあだ名をつけた。

 昨日?

 多分昨日だ。

 何故か女をじろじろと観察しながら表面上は家族以外の女とは会話しない「僕」はまるでぎりぎりで股間を隠して描かれるルネッサンス期の希臘神話の神々のようにエロチックだ。殆ど碌な食事をしていないにも関わらず『歯車』はファルス隠せない作品である。

 これもまた私の勝手な色眼鏡や抜群な思い付きですらない。芥川龍之介自身がそういうものを作中に振りまいていることは事実なのだから。
 例えば、

 それから又僕の隣りにいた十二三の女生徒の一人は若い女教師の膝の上に坐り、片手に彼女の頸を抱きながら、片手に彼女の頬をさすっていた。しかも誰かと話す合い間に時々こう女教師に話しかけていた。
「可愛いわね、先生は。可愛い目をしていらっしゃるわね」
 彼等は僕には女生徒よりも一人前の女と云う感じを与えた。

(芥川龍之介『歯車』)

 果たしてそんなことがあるものなのかと疑いつつも、ここに描かれている光景と「僕」の感覚のきわどさには驚くよりない。十二三の女生徒を一人前の女と感じる「僕」がこの光景に官能的欲望を満たしていたとすればただ事ではない。しかし恐らくこのいわゆる「スケベさ」ととられかねない視線も芥川龍之介自身からしてみれば感受性や理智の異名に外ならないのだ。

 この本は目次の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢、官能的欲望」と云う言葉を並べていた。僕はこう云う言葉を見るが早いか、一層反抗的精神の起るのを感じた。それ等の敵と呼ばれるものは少くとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかった。が、伝統的精神もやはり近代的精神のようにやはり僕を不幸にするのは愈僕にはたまらなかった。

(芥川龍之介『歯車』)

 勿論小説の中では「疑惑、恐怖、驕慢、官能的欲望」がなにがしかの効果をもたらし得る。あるいはそれを価値と呼んでもいいかもしれない。そして感受性や理智のないところに価値は生まれない。つまり「僕」の「スケベさ」に気が付いただけではまだ価値には達していないのだ。『こころ』の先生はゲイだと言ってみたり、『こころ』はBL小説だと書いて見たりする人に私が厳しい態度を取るのは、それが感受性や理智を欠いた誤読に過ぎないからだ。

「あすこにあるのは?」
 この逞しい老人は古い書棚をふり返り、何か牧羊神らしい表情を示した。
「ドストエフスキイ全集です。『罪と罰』はお読みですか?」

(芥川龍之介『歯車』)

 牧羊神の下半身は獣だ。この老人は今年十八歳になる植木屋の娘を愛している。つまりまだ十七歳の小娘を、唯神を信じ、神の子の基督を信じ、基督の行った奇蹟を信じる基督教徒が愛していて、半神半獣の牧羊神の表情を示しているとすればどうなるか。

 どうなるとは?

 

 書かれているのは顔である。しかしここで基督教徒の老人の顔に牧羊神が当て嵌められたということは、その牧羊神パーンが好色な神であり、しばしばペニスを屹立させて描かれているという事実をすかさず捉えること、つまり顔が書かれていても下半身を見る感受性と理智が必要だろう。
 この「牧羊神らしい表情」という一言で芥川龍之介が突き崩したもの、「或聖書会社の屋根裏にたった一人小使いをしながら、祈祷や読書に精進していた」「唯神を信じ、神の子の基督を信じ、基督の行った奇蹟を信じる基督教徒」という偶像を発見できなければ、到底『歯車』を読んだとは言えないだろう。

 僕は二冊の本を抱え、或カッフェへはいって行った。それから一番奥のテエブルの前に珈琲の来るのを待つことにした。僕の向うには親子らしい男女が二人坐っていた。その息子は僕よりも若かったものの、殆ど僕にそっくりだった。のみならず彼等は恋人同志のように顔を近づけて話し合っていた。僕は彼等を見ているうちに少くとも息子は性的にも母親に慰めを与えていることを意識しているのに気づき出した。それは僕にも覚えのある親和力の一例に違いなかった。同時に又現世を地獄にする或意志の一例にも違いなかった。

(芥川龍之介『歯車』)

 人間が性的存在であることは間違いない。性こそ生命の根源である。それをないもののごとくに扱って異次元の少子化対策などと言ってみてもしょうがない。しかしここで性的な慰めを親和力の一例と認めた芥川龍之介の感受性と理智を見なければやはり『歯車』を読んだとは言い難い。あるいはただ仲の良い親子のようだとはみなさず、気持ち悪いと突き放さず、「少くとも息子は性的にも母親に慰めを与えていることを意識している」と気が付いた「僕」の感受性と理智を見なければなるまい。
 ここに分かりやすくオイディプースの神は現れない。


 そうではないのだ。

 ここは「そういうことではないのだ」という芥川龍之介の感受性と理智が希臘神話の神々を持ち出さないことで表された場面である。



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