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芥川龍之介の天皇論

 これまであまり真面目に論じてこなかったが、芥川龍之介にもそれなりの天皇論、維新観というものが勿論ある。あるけれどもなかなか指摘されてこなかった。

「家康の朝廷に対する精神は、敬して遠ざくるに在りしなり。信長秀吉等は皆朝廷を担ぎて事を図りしかど、家康にはさる事なし。関ヶ原大坂の軍にも、朝旨を受けて、王師皇軍などいふ体を装はず。武家と武家との戦と做なして、朝廷の力を仮らず。是れ実に家康の深慮の存する所なり。徳川の末世に及びて、勤王を唱へし徒は、朝廷尊崇をもて東照宮の遺意なるが如く説きて、幕府を責めしかど、実を知らぬ者の迂説なりけり。朝廷に権力を持たせて、将軍政治の行はるると思ふは笑ふべし。流石さすがに新井白石は此の間の消息を解せしが如し。家康また至て公卿風を嫌ひし男なりけり。」(芥川龍之介『大久保湖州』)

 これは芥川の言ではなく、大久保湖州の『家康と直弼』のそのままの書き抜きではあるが、わざわざ書き抜いたからには、ここに芥川の意思が働いていることにはなろう。

唯僕は前に挙げた「伝記私言数則」の中に、「天自ら言はず、人をして言はしむ、されど人の声は、必ずしも天の声と一致せず、人の褒貶毀誉は、数々天の公裁と齟齬す。人世尤も憐むべきは、生前天の声を聞かずして死に入るものと為す。後人は彼が為めに、天に代り死後の知己たらざるべからず」の語を読んだ時、我々の忘れてゐた湖州の為に愴然の感を深うした。僕の文章は何であるにしろ、厳粛なる天の声などを代弁しないことは確かである。いや、得々と諸君の前に僕の発見を誇らうとする人の声に外ならぬかも知れない。
しかし僕の文章を機会に、正真正銘の天の声の「家康と直弼」を讃美することは必しもないとは云ひ難いであらう。して見れば僕の文章は中道に倒れた先達の為にも多少の回向にはなる筈である。云はば僕は孤墳の所在を出来るだけ叮嚀に指し示した。この寂しい孤墳の前に、人々の礼するのはいつのことであらう? 更に又無数の花束の手向けられるのはいつのことであらう?(芥川龍之介『大久保湖州』)

 芥川は批判のために引用したのではなく、この文章を賛美しているのだ。そこで天の声と書いてみる芥川のセンスが光る。この作で芥川は天皇を批判して居ない。ただ時の権力者に担がれる朝廷という見立てを、大久保湖州という埋もれた歴史家を面白がる形で引用しただけである。しかしこの見立てはまさに天皇が摂政によって担がれ、形骸化していた時代に於いてはかなり剣呑なものなのではなかろうか。社長が会長になり、相談役や顧問になることほど無駄なことはなかろう、とは芥川は書いていない。ただ大久保湖州を褒めているだけだ。

成程神功皇后の古きを温ね奉ることは勇敢なる婦人参政権論者の新らしきを知ることになるかも知れない。(芥川龍之介『大久保湖州』)

 芥川は今更三韓征伐の象徴的存在が一円紙幣の肖像画として持ち出されたことを批判して居ない。婦人参政権論者を批判してはいない。ただ温故知新の例えとして持ち出したに過ぎない。

しかし又逆に新らしきを温ね、古きを知ることも確である。のみならず新らしきも知らない癖に、古きばかり温ねるのは新古ともに茫々たる魔境に墜ちることも確かである。不幸にも当世の伝記の作者は大抵この魔境に安住した。彼等は史上の人物を知つてゐると信じてゐる。が、彼等自身をはじめ、彼等の父母妻子の人間たることさへ一度も真に知らずに来た彼等に、糢糊たる史上の人物はどの位心臓を窺はせるであらうか? 湖州はかう云ふ出発点から、既に彼等とは反対の道へ精進の歩みを運んでゐる。湖州の徳川家康の人間らしい英雄となり得たのも偶然ではないと云はなければならぬ。(芥川龍之介『大久保湖州』)

 芥川は天皇の神聖を笑ってはいない。ただ史上の人物はみな人間なのだと当たり前のことを書いているだけだ。しかしそう思わない人を批判している。史上の人物に人間らしさを見つけた大久保湖州を褒めている。ただそれだけだ。

 芥川龍之介氏は上海へ行くと政治のことばかりに頭が廻って困ると私にこぼしたことがある。そのころの政治という言葉の意味は今の思想という言葉に当るが、言葉も十年の間にかなりな意味の変化をしているものだと思う。このごろは精神の政治学という斬新な言葉もフランスから出て来たが、思想という言葉の含んでいる行為の部分を強めて言えば、思想は精神の政治学と言っても良い。芥川氏は私の見たところでは当時の誰よりも、自分の精神に政治学を与えていた人のようであったが、もし今も氏が生きていたなら、必ず氏の好んだ北京よりも嫌った上海の方に興味を感じたにちがいあるまい。上海を歩いていれば、ここでは絶えず自分の精神に調節をほどこす政治が必要である。またその調節の方法や度合も二十世紀の調節の仕方に、ある程度の東洋の工夫をこらさねばならぬ。この東洋の工夫がわれわれに最も必要緊急な政治学となって来たことは、支那をこの度廻って来て私の痛切に感じたことであった。私も私なりにこの工夫をしてみたいと思ったが、両手からはみ出して来る圧力には何とも致し方がなかった。(横光利一『北京と巴里(覚書)』)

 これはあくまで横光利一の見立てであり、芥川が政治的だったかどうか私には解らない。絶対に解らない。










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