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ハイレグとしての文學 谷崎潤一郎の『或る顔の印象』を読む

 谷崎潤一郎の『或る顔の印象』を読んだ。それはツイッターでハイレグの画像を検索した、と書くのと何ら変わりのない行為だったのではなかろうか。あるいは夏目漱石で検索してみると、実に多くの人が好意的なコメントを寄せている。漱石ファン、は多い。その中で、

 こんな漱石ファンがいて、

 こんなコメントが付いていた。しかし彼らが夏目漱石の『こころ』や谷崎潤一郎の『細雪』を読んだという体験は、実は「ツイッターでハイレグの画像を検索した」のと同じ程度の行為を指すのではなかろうか。「ツイッターでハイレグの画像を検索した」のと同じ程度の行為であれば誰にでも出来る。そんなことをわざわざ私がやる意味はない。そう思いつつ実際にツイッターでハイレグの画像を検索してみると、全然ハイレグでもないふわちゃんの画像が最初に上がってくる。

 なるほど文学とはまさにハイレグそのものだ。確かにそこにある筈なのに、誰もたどり着くことは出来ない。それがハイレグであり文学なのだ。『或る顔の印象』はまた驚くほどの小品である。太宰のようにぎゅっと詰まった感じのない、小品ながらそれでも引き延ばされた感じのある作品である。ハイレグもそうだろう。少ない布切れをぎゅつと引き延ばして小股を切れ上がらせている。

 筋としてはシンプルなもので、松浦という会社員が電車で乗り合わせたある男の顔に覚えがある。五年前美奈子という美人と駆け落ちしたとき汽車で東京から京都まで一緒だった男だ。松浦は今では別の女と結婚していて既に子もある。どうしてそんな男の顔を覚えているのかと考えてみると、それは美奈子との幸福な恋を楽しみ強い感激に浸っていたからではないかと考える。しかしどうも相手の男も松浦のことを覚えているような気配がある。これがふりとなる。三度男と電車で乗り合わせた時、松浦は男と話す。そして五年前の松浦の連れ、美奈子があまりにも美人なので、ついでに松浦の顔も覚えていたのだと話す。
 さて、結びはこうである。

謹直なる會社員、善良なる家庭の父を以て聞えて居た松浦が、どう云ふ弾みか近頃酒の味を覺えて妙にぐれ出したと云ふ噂が、ぽつぽつ廣まつたのそれから間もなくの事である。が、その原因が電車の中で行き遇つた「顔」の祟りにあるのだと云ふ事實は、誰も知つて居る者がなかつたやうである。(谷崎潤一郎『或る顔の印象』)

【設問①】「顔」の祟りとは具体的にどういうことか。二百字以内で説明せよ。

 さあ、皆さんどう答えるだろう。小説とはハイレグのように肝心な部分をきわどく隠す事によってむしろ強調し、本来何の価値もないものをあたかも価値あるように見せる詐欺である。そのことはこの設問の答えを解いた時に明らかになるだろう。隠し方がぎりぎりであるほどハイレグ性が高まるのと同じで、隠し方がぎりぎりであるほど文学性も高いように感じられるのは、女の人がかつらの男性の髪の生え際辺りを凝視する事とは何の関係もない。豆腐が作れる豆乳という宣伝文句がさして心に響かないのは、男の人が走ってくる女性の胸がゆさゆさ揺れるのを凝視することとも全く関係ない。隠し方がぎりぎりであるほど文学性も高いように感じられるのは、そういうことを可能にする「落ち」が些細であるけれども取り返しがつかないからに他ならない。肥大した「落ち」はギリギリでは隠すことが出来ない。
 乃木大将の妻・静子の殉死はおかしいのではないかと、夏目漱石の『こころ』は静を残す遺書で指摘しているが、この「落ち」は百年間見事に隠された。皆「明治の精神」の解釈に気を取られて、難しそうな屁理屈をこねる大喜利を始めたからなのだが、たしかにあれは見事な赤ニシンだった。わざわざ軍人の未亡人宅に下宿する設定にも誰も気が付かなかった。父親のない子を守ることこそ銃後の務めではないかと誰も言わなかった。
 Kを小刀細工で自殺させてしまったのも効いた。自殺はそんなに簡単なことではない、と森鴎外は『高瀬舟』を書いた。

 大きすぎる「おち」はハイレグでは隠せない。だから大きな「おち」はフィットアンドフレアーであれ、甘めと辛めのコーデであれ、革ジャンとワンピースの組み合わせであれ、カーテンほどの布地を使って隠さねばならないのだ。

 さてそろそろ解答は書けただろうか?

 何々、

「五年も前に会っただけの男の連れの顔を記憶させるほどの美人を失ったのだと改めて痛感させられたこと」

 はい。零点。

 それじゃあ、「ふり」と「落ち」関係性がつかめていない。松浦が相手の男の顔を覚えている理由に行きついていない。せめて、

「五年も前に会っただけの男の連れの顔を記憶させるほどの美人を自分は失い、この男は得たのだと初めて知らせされたこと」

 ではなかろうか。松浦には既に美奈子を失ったという悔いはあっただろう。だから「改めて痛感」では落ちが弱い。ここにはじめて知る事実がなくてはならない。自分がこの男の顔を覚えているのはその連れの女も相当な日美人だったからなのだ。美人でなくては、つまり相当に自信がなければ、妻は夫に誰かを美人だと言わないだろう。何故そう言い切れるのか?『或る顔の印象』では男の連れの容姿、顔の印象について一言も触れられていないからだ。

 それはまるで『それから』で新婚の三千代と平岡を新橋の停車場で見送る代助が、あえて三千代に一瞥もくれないのと同じレトリックである。『或る顔の印象』というハイレグで隠された「おち」は連れの女の「顔の印象」である。『或る顔の印象』というハイレグについて私が語りうるのはこの程度のことだ。





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