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夏目漱石『こころ』をどう読むか⑲ 静を観察せよ


財産があるなら働かなくていい

 遺憾ながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口の資、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は状差へあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。宅に相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって藻掻き廻るのか。私はむしろ苦々しい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥を与えただけでした。私は返事を上げなければ済まないあなたに対して、言訳のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾な言葉を弄するのではありません。私の本意は後をご覧になればよく解る事と信じます。とにかく私は何とか挨拶すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。(『こころ』夏目漱石)

 先生の「私」に対する態度、特にこの「無意味」という言葉は些か厳しい様に思います。しかしここで注意して読まないといけないのは、「私」の存在が無意味なのではなく、「私」が焦って求めている地位や糊口の資が無意味と言っているというところです。しかしこの先生の本意というものを掴みかねている人が多い様に思います。

 先生の本意とは何でしょう?

  このことも殆ど議論されてこなかったように思います。

 今日また低次元の感想らしきものを見かけました。

ICT雑感:夏目漱石『こころ』をBL小説として読む
https://www.icr.co.jp/newsletter/wtr386-20210531-kawafuchi.html

 程度の低いブログの受け売りで、さして考えもなしに書いているようです。立場のある人が軽々しく書くべき内容ではありません。繰り返し書きますが、BL的要素は確かにあるのです。しかしそれだけではないということを認めなくてはなりません。

静を観察せよ

 先生の本意、それは結末にあるのではないでしょうか?

 私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然描き出す事ができたような心持がして嬉しいのです。私は酔興に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。渡辺華山は邯鄲という画を描かくために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達って聞きました。他から見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心の中にあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。私の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
 しかし私は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。妻は十日ばかり前から市ヶ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病気で手が足りないというから私が勧めてやったのです。私は妻の留守の間に、この長いものの大部分を書きました。時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました。
 私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。(『こころ』夏目漱石)

 先生は遺書を自叙伝として書いており、それを他の参考に供するつもりなのです。なるほど『こころ』が教科書に載る訳です。しかしいくら教科書に載っても、誰も理解しなければ困ったものです。

 まず先生の遺書を読んでしまうと、静が純白でなくなると書いてしまっています。先生は理窟では静の罪が見えていて感情で認めていないのです。そういうジレンマが見て取れます。

 それから静が死んだら自叙伝を世に出して欲しそうです。つまり「私」に自叙伝を託し、後にそれを世に出せと命じているようなものです。これが先生の本意なら、地位を得なくてもいいし、生活費も稼がなくていいから、立派な本を書きなさい、ということではないでしょうか。

 それからもう一つ、「私」にはある使命が与えられていることになります。「私」は先生の自叙伝を世に出すために、それなりの物書きにならなければなりません。素人は本を書くことが出来ません。あと、もう一つありますね。必ず自叙伝を世に出す為には「私」は静の死を確実に知らなくてはなりません。つまり静を観察し続ける必要があることになります。そうでなくては作品を発表するタイミングがつかめません。あてずっぽうでは困るのです。それに「私」と静の年齢差がそう大きくない(先生が未亡人の下宿に入るのは日露戦争後、Kの死から先生の死までは十二から十五年の期間しかなさそう。先生と結婚した時静が二十歳なら先生の死の時点で静は三十五歳程度。ならば二十二、三の「私」とは十二、三歳差となり、女性が長生きであることから、うかうかしていると先生の自叙伝を世間に公表できないまま「私」の方が先に死んでしまいます。)ことから、「私」はずっと静を観察し続けなくてはならないことになります。

 これが先生の本意です。静を見守り、やがて自分の自叙伝を公にせよ、いたずらに地位を求める奴は馬鹿だ…。先生は「私」の正体に気が付かないまま、大変な事を頼んでしまいました。しかしそんな先生の無理難題を引き受けた「私」は冒頭でいかにもすがすがしいですね。やっと先生の本意を成し遂げることができたと、そんな感じがしませんか。

 そうでなければ、「あなたの地位、あなたの糊口の資、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。」「私はむしろ苦々しい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥を与えただけでした。」と書かれて、下級官吏や田舎教師にでもなっていたら、これは恥ずかしいですよね。無意味でないところ、先生を苦々しくさせないところに「私」は立たねばなりません。

 これを全部同性愛に収めますか?「私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。」の善悪はBLですか? むしろ先生の遺書にはBLの要素はなく、BL的要素はふりであり、賺しに終わったと見るべきでしょう。三島由紀夫がフリーセックスなんてただのセックスだ、という名言を残しています。先生は「私」の淋しさの根を引っこ抜いてやることはできません。その代わりに一段高いところに「私」を導きます。精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は「私」にも応えたでしょう。「私」は向上心をもって文学を極めたわけです。そうでなければ『こころ』なんて物凄い小説は書けませんよ。

 静の乳を揉みながら、まごころに思いやりを突き立てながら、「私」には精神的に向上心がある訳です。

和辻哲郎の目論見

「草枕」の画かきさんはこの世を「住みにくい国」と言う。画かきさんは芸術をもってこの世を住みよくし浮世の有象無象を神経衰弱より救うつもりである。春の、ホコホコと暖かい心持ちのよい日に、春の海を眺め春の山を望みボケの花の中で茫然として無我の境に無我の詩を造る。画工さんはまず自己を救った。すべての物質的人事を超越している。この画かきさんが大なる決心と気概とをもって、霊の権威のために、人道のために、はた宇宙の美のために断々乎として歩むならば吾人は霊的本能主義の一戦士として喜んで彼を迎えたい。も少し精を出して大作を作り、も少し力を入れてウルサイ世人をばかにしたら吾人は双手に彼を擁したく思う。画かきさんはさらに煩わしい人事の渦中、平然としてボケ花中に眠る心持ちを保たねばならぬ。他人の神経衰弱を癒すにはまず陰気な顔をした患者を自由に操縦せねばならぬ。(『霊的本能主義』和辻哲郎)

 和辻哲郎が夏目漱石にラブレターの様な手紙を送り、漱石が些か紛らわしい返事を書いたのは大正二年の事である。『霊的本能主義』が書かれたのは明治四十年十一月、この時点でまだ二人には個人的な付き合いはなかった。この文章は『公友会雑誌』に書かれており、『帝国文学』和辻哲郎の名を知ったという漱石の手紙を真に受ければ、この『草枕』に関する呟きは漱石に届いていないのではないかと推測される。

 しかしまた長兄・大助などに加えて、和辻哲郎のエッセンスはKにも「私」にも因数分解で振り分けられそうに思えてくる。

 吾人はさらに進んで一言付加したい事がある。日本の武士道は種々なる徳の形を取れどその根本は真義愛荘に啓示を得て物質を超越し霊的人生に執着するにある。勇気、仁恵、礼譲、真誠、忠義、克己、これすべてこの執着の現象である。ただ末世に至って真の精神を忘れ形式に拘泥して卑しむべき武士道を作った。吾人は豪快なる英雄信玄を愛し謙信を好む。白馬の連嶺は謙信の胸に雄荘を養い八つが岳、富士の霊容は信玄の胸に深厳を悟らす。この武士道の美しい花は物質を越えて輝く。しかれども豪壮を酒飲と乱舞に衒てらい正義を偏狭と腕力との間に生むに至っては吾人はこれを呪う。(『霊的本能主義』和辻哲郎)

 どこか三島由紀夫の様な、どこかKのような、若い和辻哲郎がここにはいる。二人だけの場で和辻哲郎と夏目漱石の間でどのような会話がなされたのか、和辻哲郎側からの一方的な思い出だけを証拠として、二人の関係を固定することは憚られるが、こんな思い出はやはり『こころ』という作品のどこかに、和辻哲郎が自分のエッセンスをねじ込もうと意図したものであろうと思わざるを得ない。和辻哲郎は夏目漱石にとって特別な存在であることを願い、払いのけられた。

 初めて漱石と対坐しても、私はそう窮屈には感じなかったように思う。応対は非常に柔らかで、気おきなく話せるように仕向けられた。秋の日は暮れが早いので、やがて辞し去ろうとすると、「まあ飯を食ってゆっくりしていたまえ、その内いつもの連中がやってくるだろう」と言ってひきとめられた。膳が出ると、夫人が漱石と私との間にすわって給仕をしてくれられた。夫人は当時三十六歳で、私の母親よりは十歳年下であったが、その時には何となく母親に似ているように感じた。体や顔の太り具合が似ていたのかもしれない。かすかにほほえみを浮かべながら、無口で、静かに控えておられた。当時はまだ『道草』も書かれておらず、いわんや夫人の『漱石の思い出』などは想像もできなかったころであるから、漱石と夫人との間のいざこざなどは、全然念頭になかった。『吾輩は猫である』のなかに描かれている苦沙弥先生夫妻の間柄は、決して陰惨な印象を与えはしない。作者はむしろ苦沙弥夫人をいつくしみながら描いている。だから私は漱石夫妻の仲が悪いなどということを思ってもみなかったのである。実際またこの日の夫人は貞淑な夫人に見えた。(『漱石の人物』和辻哲郎)

 夏目漱石を「漱石」と呼んでしまう和辻の表現が意外だ。そしてこれはいかにも『こころ』に寄せた表現ではなかろうか。しかし結果として『こころ』の「私」は先生にとっては偶然出会った青年であり、因果はない。


 飯になった時、奥さんは傍に坐っている下女を次へ立たせて、自分で給仕の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕来たりらしかった。始めの一、二回は私も窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗を奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。
「お茶? ご飯はん? ずいぶんよく食べるのね」
 奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。(夏目漱石『こころ』)

 この『こころ』を読んで和辻は得意であろう。無論夏目漱石の目論見の方には、自分の周りに集まり、中には自分の取り合いをするような五月蠅い青年たちに閉口する「夏目先生」という現実を上手く小説に取り入れるというものがあったには違いないのだが、和辻の方はこの『こころ』を自分自身の物語として、先生を独り占めしたいという目論見があったのではなかろうか。

  ――先生は「人間」を愛した。しかし不正なるもの不純なるものに対しては毫ごうも仮借する所がなかった。その意味で先生の愛には「私」がなかった。私はここに先生の人格の重心があるのではないかと思う。
 正義に対する情熱、愛より「私」を去ろうとする努力、――これをほかにして先生の人格は考えられない。愛のうち自然的に最も強く存在する自愛に対しても、先生は「私」を許さなかった。そのために自己に対する不断の注意と警戒とを怠らなかった先生は、人間性の重大な暗黒面――利己主義――の鋭利な心理観察者として我々の前に現われた。先生にとっては「正しくあること」は「愛すること」よりも重いのである。私はかつて先生に向かって、愛する者の悪を心から憐れみ愛をもってその悪を救い得るほど愛を強くしたい、愛する者には欺かれてもいいというほどの大きい気持ちになりたいと言った事があった。その時先生は、そういう愛はひいきだ、私はどんな場合でも不正は罰しなくてはいられないと言われた。すなわち先生の考えでは、いかなる愛をもってしても不正を許すことは「私」なのである。たとえ自分の愛子であろうとも、不正を行なった点については、最も憎んでいる人間と何の択ぶ所もない。自分の最も愛するものであるがゆえに不正を許すのは、畢竟イゴイズムである。(和辻哲郎『夏目先生の追悼』)

 これでは殆ど夏目漱石が『こころ』の先生になってしまう。これを『こころ』を意識しないで漱石の死後に書いたとは到底考えづらい。和辻はこうして自分と夏目漱石の間で、あたかも『こころ』の先生と「私」のような会話が交わされたことを世間に示したいのだ。

 こうした和辻の目論見によって、「私」のモデルは和辻哲郎ではないかとささやく声が広まり、いつか「私」の不思議な立ち位置が曖昧にされる文学史が生まれてしまったのではないかと私は勘ぐっている。

 しかしこれは個々の受け止めの問題であり正解がある話ではない。ただなんとなく付け足しておきたいだけの話である。







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