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大岡昇平の漱石論について① 美禰子は銀行員と結婚したのか?

 夏目漱石の『心』は失敗作であるとのたまうような作家の漱石論などどうでもいい。Kが苗字ではないと気が付かない作家の漱石論などどうでもよい。そんなものは読む必要がない。時間の無駄だ。彼らはこの記事だけで消し飛ぶ理屈だ。

 しかしあの『レイテ戦記』の作者でもある大岡昇平の漱石論の貧弱さの前に、私は正式に戸惑う。改めて年譜を確認し、如何にしても私が漱石論を届けられる余地がなかったことを確認して、ようやく私はこう書くことができる。私は戸惑っていると。何とか悪く言いたくないし、できれば持ち上げたい。しかし大岡昇平の漱石論は、江藤淳のものを超えてはいないし、基本的な読みのレベルにおいて、最低限の水準に達していないことから混乱している。

 最低限の水準とは例えば『心』においては、

①「私」が先生を見つけ出し、懐かしみから近づくこと、その直感がやがて先生の手紙によって事実の上に証拠立ててられること。つまり「私」がKの生まれ変わりのように仄めかされること

②「私」と先生の海水浴に於いて、特に「私」が全裸のように仄めかされること

③静が残される意味が理解できていること

 …などである。

 先生の自殺の理由が解らないなどという者にはそもそも『心』を論じる資格がない。そういう意味では大岡昇平の漱石論はほぼ無意味である。いや、大岡昇平の漱石論ほぼ無意味である。大抵の漱石論はほぼ無意味だ。全体の筋が読めていないので部分の意味が捉えきれていない。それでもなお、何か拾うべきものがあるのではないかと大岡昇平の『小説家夏目漱石』を読んでみた。

 すると例えば「従軍行」におかしな句があることに気が付きながら、深堀できていないということが解る。私はそれを破調、後のダダイズム的反骨心として捉えた。覆された宝石のような朝 何人か戸口にて誰かとささやく それは神の生誕の日、といった西脇順三郎的なシュルレアリスムではなく、中原中也的ダダと見る。 ↓ のページのリンク先に「中原中也・全詩アーカイブ」があるので比較してもらいたい。


 なるほど流石に『趣味の遺伝』がふざけていることにも気が付いている。(「漱石と国家意識」)しかし藤尾は服毒自殺をしてしまうと書いてしまう。このちぐはぐさはどうしたものか。

 ところで、こんど『門』を読み返しながら得たへんな思い付きをいっておきます。お米と義弟小六が宗助の留守中、差向いで食卓に向う場面があります。それが例によって妙な雰囲気を出していて、小六はそれが気詰まりで外で酒を飲んで帰って来たりする。あるいは、お米と小六が姦通して、宗助が罰せられるという構想があったかと、私は一瞬空想したけれど、結局、気苦労の揚句お米が寝付いてしまうだけです。(「姦通の記号学」)

 やはり大岡昇平も参禅の意味には気が付いていない。『行人』の結末にも気が付いていない。『道草』を自伝と見做してしまう。

 私はすぐその前に読んだ『三四郎』を思い出しました。美禰子というヒロインは大学生三四郎と恋人として弄ばれながら突然富裕な銀行員と結婚してしまう。(「『明暗』の結末について」)

 こういう説明が非常に困る。まず、

①美禰子の「恋人」といえばむしろ堂々とプレゼントを渡すことのできる野々宮が妥当ではなかろうか
②私には完全に三四郎が美禰子に弄ばれているように見える
③美禰子の結婚相手が「富裕な銀行員」だという記述はいくら探してもみつからない

 ……のである。銀行の文字は三か所あるが「員」がつかない。

「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」
「あれぎりです」
美禰子さんにも縁談の口があるそうじゃありませんか」
「ええ、もうまとまりました」
「だれですか、さきは」
「私をもらうと言ったかたなの。ほほほおかしいでしょう。美禰子さんのお兄いさんのお友だちよ。私近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。美禰子さんが行ってしまうと、もうご厄介やっかいになってるわけにゆかないから」
「あなたはお嫁には行かないんですか」
「行きたい所がありさえすれば行きますわ」
 女はこう言い捨てて心持ちよく笑った。まだ行きたい所がないにきまっている。(夏目漱石『三四郎』)

 この縁談の相手はおそらくこの人である。

 向こうから車がかけて来た。黒い帽子をかぶって、金縁の眼鏡を掛けて、遠くから見ても色光沢のいい男が乗っている。この車が三四郎の目にはいった時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見つめているらしく思われた。二、三間先へ来ると、車を急にとめた。前掛けを器用にはねのけて、蹴込けこみから飛び降りたところを見ると、背のすらりと高い細面のりっぱな人であった。髪をきれいにすっている。それでいて、まったく男らしい
「今まで待っていたけれども、あんまりおそいから迎えに来た」と美禰子のまん前に立った。見おろして笑っている。
「そう、ありがとう」と美禰子も笑って、男の顔を見返したが、その目をすぐ三四郎の方へ向けた。(夏目漱石『三四郎』)

 黒い帽子と金縁の眼鏡で銀行員と決めつけるわけにはいかない。明治時代の銀行員がみな富裕だったわけでもないことは『それから』の平岡が失職後お金に困ることからも明らかだ。とにかくこの男はイケメンの紳士のようだ。おそらく金持ちなのだろう。しかし作中に「銀行員」という説明はない。

 何故大岡昇平は、
①美禰子の「恋人」を三四郎と決めつけ
②三四郎が美禰子を弄んでいると見做し
③美禰子の結婚相手を「富裕な銀行員」だと特定したのか

 大岡昇平は「江藤さんは優秀な批評家ですが、なにぶん若くてせっかちですから間違えるのです」と書いている。では当人はどうだったのか?

 また大岡昇平は『明暗』の津田の病名を「痔」とする。結核性かどうか問われていることからこれは「痔瘻」である筈である。医者との会話や治療の様子はほぼそっくりな形で漱石の日記に残されていることから、津田の病名も殆どの漱石論者がやすやすと「痔瘻」であると見抜いているのに、どういうわけか大岡昇平は「痔」としてしまう。これはいささか奇妙なことではなかろうか。

 大岡昇平は「何のために、江藤さんの才能がこんなむだな仕事に浪費されなければならないのか」と書いている。では自分自身はどうなのか。

 『明暗』について語りながら「飛行機」にも「反逆者」にも触れない。「男と男が結ばれる成仏」にも「生きたままの生まれ変わり」にも触れない。二人の小林にも、「津田」という苗字にも、副意識、第二意識にも論が及ばない。

 しかし、

 江藤さんのように、創造されたものと伝記的事実との間の因果関係を辿るのではなく、この二つのものは関連して変化するものと見なせばよい。つまり作品が多く書かれれば、伝記的事実への指標も増える。それだけ事実は重さを増し、確実な外観を呈するのです。しかしそれはそのように見えるだけで、もともと別の次元に属しているのです。テクストに死んだ女が出てくるからといって、現実に死んだ女が作者の周辺にいた、ということにはならない。作家は現実の日常的諸関係の中にある小さな種子を、創造に当って拡大し、いろいろな意味をまといつかせる。(「漱石の構想力」)

 なるほど確かにこれは『レイテ戦記』の作者の言葉だ。確かに作家は現実の日常的諸関係の中にある小さな種子を、創造に当って拡大し、いろいろな意味をまといつかせる。「結局は小説家である著者が見た大きな夢の集約である」と大岡昇平が語っている通り、よく調べてみるとレイテ島では誰一人としてこれまで死んだ者はいないのだった。


【付記】本当に銀行員?

○美禰子は何者か?
 さて、『三四郎』の記述は全体に謎めいていて、読者が読みながら物語を再構成する部分が非常に強い。『三四郎』は、謎解きをせずに読者に投げかけられた推理小説ででもあるかのようだ。物語では、三四郎が里見美禰子という勝ち気で教育もある謎めいた女性に出会い恋をするが、美禰子はさんざん三四郎を翻弄した末に、三四郎の知らない銀行員と結婚してしまう。なぜ美禰子はこのような行動をとったのか。

esuke2008さんはこんなブログ記事を書いてしまう。非常に強い。って?

 しかし彼ばかりではないのだ。小谷野敦の『夏目漱石を江戸から読む 新しい女と古い男』(中公新書、1995年)にも、

 美禰子はさんざん三四郎を翻弄した挙げ句、三四郎のよく知らない銀行員と結婚してしまうという筋を持っている。

『三四郎』批評では、美禰子は三四郎を愛していたのか、野々宮を愛していたのか、銀行員と結婚してしまったのはなぜか、といった問題がひところ焦点になったことがある。

 ……と書かれている。つまり「美禰子の夫は銀行員」と認識している人は、大岡昇平と小谷野敦だけではないという理屈になる。


 美禰子は夫に連られて二日目に来た。原口さんが案内をした。「森の女」の前へ出た時、原口さんは「どうです」と二人ふたりを見た。夫は「結構です」と言って、眼鏡の奥からじっと眸を凝らした。
「この団扇をかざして立った姿勢がいい。さすが専門家は違いますね。よくここに気がついたものだ。光線が顔へあたるぐあいがうまい。陰と日向の段落がかっきりして――顔だけでも非常におもしろい変化がある」
「いや皆御当人のお好みだから。ぼくの手柄じゃない」
「おかげさまで」と美禰子が礼を述べた。
「私も、おかげさまで」と今度は原口さんが礼を述べた。
 夫は細君の手柄だと聞いてさもうれしそうである。三人のうちでいちばん鄭重な礼を述べたのは夫である。(夏目漱石『三四郎』)

 美禰子の夫は、眼鏡をかけた紳士である。しかし銀行員とは書かれていない。

 野々宮さんは行くとも行かないとも答えなかった。また三四郎の方を向いて、今夜妹を呼んだのは、まじめの用があるんだのに、あんなのん気ばかり言っていて困ると話した。聞いてみると、学者だけあって、存外淡泊である。よし子に縁談の口がある。国へそう言ってやったら、両親も異存はないと返事をしてきた。それについて本人の意見をよく確かめる必要が起こったのだと言う。(夏目漱石『三四郎』)

 この縁談の相手が最終的に美禰子の夫になる相手である。両親も異存はないところから申し分のない相手であることだけは解る。

「私をもらうと言ったかたなの。ほほほおかしいでしょう。美禰子さんのお兄いさんのお友だちよ。私近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。美禰子さんが行ってしまうと、もうご厄介になってるわけにゆかないから」(夏目漱石『三四郎』)

 美禰子さんのお兄いさんのお友だちよ。と書かれている。しかし銀行員とは書かれていない。私に探せないだけで本当に美禰子の夫は銀行員なのか? それともどこかで勘違いが伝染しているのか? もしも勘違いが伝染しているのだとしたら、その発生源はどこなのか?





【追記】

 ここに書きましたが、少なくとも小谷野敦さんは大岡昇平に釣られただけだそうです。

 と、一応ご本人のコメントを頂戴しました。

 あとは大岡昇平のコメント待ちです。

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