夏目漱石の『坑夫』をどう読むか② 漱石は無理を押し通す
要するに分らない
分かるのか解らないのか解らない文章だ。「落ち着いた今日の頭脳の批判を待」てば「盲動に立ち至るまでの経過は」わかるものの、結局「盲動」に関しては解らないということか。
例えば『絶歌』において元少年Aがあの頃のタンク山のことを思い出して書いてみる。それはスペルマと言いスペクトラムと言い大袈裟な比喩と気取りに溢れた蒼い描写だった。
しかしその描写はまたどこかプルーストを思わせるような際どい真剣さを持っていた。
ただ悲鳴を上げるだけの善良な猿たちを馬鹿にするためにあたかも『絶歌』の一部を切り取ったかのように偽装したこの一文は、実はマルセル・プルーストの『楽しみと日々』の一節の単語を入れ替えただけのものである。しかし元少年Aの回顧は、この水準には到達している。未熟さと、気取りと、生意気さで猿たちに悲鳴をあげさせる程度には。
それでも夏目漱石、いや『坑夫』の主人公はこんな文章は好まぬだろう。
いや、『絶歌』はもはや中年に差し掛かった元少年Aが再び神戸を訪れ、あちこちで写真撮影をして、あの頃の記憶を呼び起こし、解剖の刀を揮って、縦横十文字に自分の心緒を切りさいなんでいるように見せかけた小説だ。そして『坑夫』も。
当たり前のことだが夏目漱石は坑夫ではない。縦横十文字に切りさいなむべき自分の心緒というものを持ってはいない。
それにしてもここまで『坊っちゃん』や『こころ』にもまして、いやまるで『こころ』の中の「先生の遺書」に近いくらい、書いている現在と書かれている現在との距離を空け、この小説が回顧の形式で語られていることをこれでもかこれでもかと強調するのはどういう了見だろう?
しかも『坑夫』の主人公は「こう書くと」「人の事のように書くのは」「ここに書いたのはもちろん当字である」……とまさに今この小説を書いているのが自分であることを強調する。これでは理屈の上では『坑夫』の主人公は作家になってしまうことになる。
その意図は……要するに分からない。
そりゃそうなる
この場面は例の三四郎の弁当箱投げに絡めて考えると面白い。何しろ「昔は汽車の窓から弁当箱などゴミが捨てられていた」という情報の根拠に真っ先に挙げられるのが『三四郎』そのもので、その外には1919年の鉄道院 [編]鉄道院『鉄道から家庭へ』くらいなもの。
実際にどのくらいの頻度で弁当箱投げが行われていていたものかはっきりしたことは解らない。ただしこの『坑夫』の主人公の実験によって、あらかじめリスクが確認されている点は興味深い。
寝ると急に時間が無くなっちまう
私自身の全身麻酔手術の体験で言えば、麻酔がかかって意識が消えてから、再び意識が戻るまでの時間の経過の認識は確かにない。あっという間に手術は終わっていて、気が付くと自分の外側で時間が経過している。脱がされたパンツをはいている。つまり時間が無くなる。
逆に寝ると時間が無くなるかどうかは私には分からない。
私の場合なくならないことが多い。邯鄲の夢ではないが、短い睡眠時間でそれなりの長さの夢を今朝立て続けに見た。十五分くらいで何週間かの時間を過ごしたような感覚がある。無論そんな感覚は目覚めればたちまち失せてしまうのが常だ。今朝はたまたま内容が濃かったので記憶から消えなかっただけだ。
ただこの感覚も人によってかなり違うのだろう。私には邯鄲の夢がよく解る。そうでない人がいても不思議ではない。
またここでは『坑夫』の主人公が死後は時間の感覚がないと考えていることが興味深い。オカルトなところがなく合理的な考えの持ち主である。
時々朋友に咽喉を締めて貰う事がある
この間まで柔術と言っていたものが柔道になり、さらに「投げ」中心に捉えられていたものが、締め技と活法にまで言が及ぶ。
この柔道の締め落としによる失神は、遊びとして現在まで行われている。
しかし活法がどの程度教えられているのかは謎だ。
おそらく漱石は実践せぬまでも、失神と活法との関係を聞き知り、少なくとも活法がオカルトなものでないところまでは理解していたのだろう。これで『三四郎』では広田先生が関節技の実技を行うのだから、漱石自身が柔道の稽古の見学くらいはしていたのではあるまいか。
空間の運動には依然として反応を呈する能力がある
おやおやこれは大変な問題に突き当たってしまった。私はこれまで『三四郎』の冒頭に関して、物語が三人称で語られていて、話者が身体性を持ち、三四郎が眠っていても、話者はその姿を観察していると読んできた。
つまり、
こんなところで駅の勘定をしているのは三四郎ではなく話者であり、寝ていては駅の勘定が出来ないと決めつけていたのだが、
このような人間も「時間の経過だけは忘れているが、空間の運動には依然として反応を呈する能力」があるとすれば不思議でもなんでもなくなる。私にはそんな芸当は出来ない。寝ていればまさに寝過ごす。
ここは前回のカルテジアン劇場の話と併せて考えると、どうもなかなか珍しい感覚の持ち主を拵えようとしているようにも思えてくる。
そもそも自分を客観視することなどデカルトと福田康夫にしか出来ないことではないかと言われている。科学技術によって外面だけは観察できるようになったが自分の心の内を自分が観察する仕組みはまだ出来上がっていない。要するに自分を見ている自分を見ている自分を見ている自分……という無限後退が起きてしまうからだ。
また「空間の運動」が時間の概念なく成立し得るものかどうか私にはわからない。しかし漱石は無理を押し通す。
死んだり生きたり互違いにするのが一番よろしい
いや、風呂に入って足の裏を揉み、湯上りにビールを飲んで映画でも見ながら、焼き鳥と刺身をつまみに缶チューハイを飲んで寝て、昨日の煩悶を忘れてしまうのが一番いい。何もいちいち死ぬことは無い。
何しろ柔道の締めわざと活法のような死んだり生きたり互違いにする方法が確立されていない。死んだら財産が凍結されて、生き返っても無一文になる。それに生き返った自分が煩悶という記憶を無くしていたら、それが同じ人間なのかという、テセウスの船だかスワンプマンだか何だか知らないが、また自己同一性の問題が出て來る。
古い話で恐縮だが『冬のソナタ』では、記憶というものがその人そのものだ、というテーゼが繰り返されていた。記憶が変われば別人になる。煩悶しない芥川は芥川ではない。
たんだがむらむらと塊って
いやしかし、むしろ私の関心は死の直前に見る走馬灯ではなく、「たんだがむらむらと塊って」という「たんだ」の名詞化と映像化、そして「たんだ」による提喩の方にある。
ここまで複合的なレトリックに独自に与えられた名称はないか、先例はないかと考えた。先例はどうもありそうな気がする。しかしこのレトリックに独自に与えられた名称はないのではなかろうか。これは間違いなく「面白半分興に乗じて、好い加減につけ加えた」言葉遊びである。
[余談]
このサイズで248円って、ドイツパンは高いね。
蟲の生活?
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