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村上春樹作品『猫を棄てる』を読む 『父を棄てる 猫について語るとき』?



         父親

母の連れ子が、インク瓶を引つくり返した。

インク瓶はころがりころがり机から落ちて、硝子の片が四方に飛び散つた。
子供は驚いた。
ペルシャ製だといふじゆうたんは、真ッ黒に汚れた。
そして、破れた硝子は、くつ附かなかつた。
母の連れ子の脳裡に恐ろしい父の顔が浮び出た。
書斎のむち、今にもつぎはぎだらけのシャツを脱がされて、むちが……
喰ひ附くやうに、
母の連れ子の、目の下に、黒いじゆうたんが、わづかな光りに、ぼやけてゐる

 これは、なかなか情報が渋滞してしまうが、三島由紀夫になる前の平岡公威の十一歳の時の詩、である。三島由紀夫研究会のメルマガがサービス終了でリンク切れになっていたのでwaybackmachineのアーカイブで読んでいたら出てきたものだ。ナチス信奉者であった父は、やはり当時の公威にとって恐ろしい(あるいは厄介な)存在でもあったのかと思わせる詩だ。ここには罰するものとしての父と、罰せられるものとしての連れ子が書かれる。父の書斎に忍び込み、インク瓶をひっくり返す……ここには父の知識にあこがれる少年も見える。あるいは父親という寡黙な存在の秘密を暴こうという試みも見える。

 村上春樹氏の『猫を棄てる』に関して、私はこれまでどうしたわけか書店で手に取ることもなく、読まなくてもいいかとさえ思っていた。どうやら父親の思い出と戦争について書かれたエッセイであるらしいことは、本そのものを手に取らずとも、どこかから漏れ聞こえてきた。だから読まなかったのかなという気もする。たまたま読んでみると、あれやこれやのことがさらに渋滞し始める。

 題名の『猫を棄てる』はどうしてもレイモンド・カーヴァーの『犬を捨てる』を連想させる。『犬を捨てる』は犬を捨てようとして、犬に捨てられる話だ。ちなみに私はこんなところでいちいちネタバレなどと断らない主義だ。そもそもネタバレという言葉が嫌いだ。吉本隆明は夏目漱石の『こころ』の主人公を先生だと思い込んだまま死んだ。ネタバレと断るほど読解力があるなら、夏目漱石の『こころ』の主人公を先生だと思い込むこともなかろう。果たしてどれだけの読解力があれば、いちいちネタバレなどと断ることが可能なのだろうかと、さらに渋滞を増やしてしまった。『猫を棄てる』は猫を捨てたが戻って来た、という話だ。しかし子猫が松の木に上って降りてこなかった話でもある。父親が軍隊で何をしたのか調べようとする話であり、父親と親せきの関係の話でもある。エッセイの達人でもある村上春樹氏が、小気味良くまとめることができないテーマについて語り、結果としていろいろなものが渋滞している感じの話になっている。『猫を棄てる』という題名はレイモンド・カーヴァーの『犬を捨てる』を連想させ、『犬を捨てる』は犬を捨てようとして、犬に捨てられる話だ、とわざわざ断ったのは『猫を棄てる』が事実として猫は捨てたものの、結果とすると猛スピードで猫が追いかけたらしく、家に戻ると出迎えてくれたという話だからだ。AC的に言ってしまえば「戻ってきてよかったよかったで済む話ではなく、この親子は犯罪者です」ということになるのだろうか。一方、子猫が松の木に上って降りてこなかった話に関して言えば、これは犯罪とまでは言えないまでも、やはり無責任すぎるし、残酷なものを感じざるを得ない。

 僕は今でもときどきその夙川の家の、庭に生えていた高い松の木のことを考える。その枝の上で白骨になりながら、消え損なった記憶のようにまだそこにしっかりとしがみついているかもしれない子猫のことを思う。そして死について考え、遥か下の、目の眩むような地上に向かって垂直に降りていくことのむずかしさについて思いを巡らす。(『猫を棄てる 父親について語るとき』村上春樹/文藝春秋社/2020年)

 読みやすく滑らかな文章だが、子猫がカラスに食われたのであれば、やはり「そこではないだろう」と思わせる文章だ。村上春樹氏は子猫が松の木に上って降りてこなかった話に関して「降りることは、上がることよりずっとむずかしい」という教訓を得る。これもいささかピントがずれてはいまいか。難しいかどうかは、降りられて初めてわかることだからだ。「降りることは、上がることよりずっとむずかしい」では観念的な一般論でしかなく、体験から得た教訓ではない。もしもこれが事実であれば、当時は猫の命など軽いもので、猫を飼うということはその程度のことだったのだなという感想を持たざるを得ない。松の木の枝は柿木同様折れやすく、人間が上るのも安全とは言えないまでも、男の子ならば上って助けてやるのが普通だろうし、親が見ていたなら近所から梯子くらい借りられただろうにと考えてしまう。

 しかし渋滞感の根源は父親の秘密に迫ろうとしているのかいないのか、曖昧な村上春樹氏の姿勢と、父親の何を見ようとしているのか解らない事実の積み上げ方、未整理ぐあいに原因がある。それは村上春樹作品において繰り返し指摘されてきた「父を語ることの困難さ」がそのまま出てしまった結果に見えてしまう。『猫を棄てる 父親について語るとき』において村上春樹氏の父は俳句の好きな、寡黙な男である。阪神タイガースのファン。優秀な教師。戦争に行って、捕虜を殺したかもしれない。二人で猫を捨て、二人で子猫を見殺しにする。いわば共犯者としての父を描きたいのかといえば、そうでもなさそうだ。祖父の名は弁識。叔父は四明。父は一度家から捨てられる。そこがポイントでもなさそうだ。そもそも父であれ誰であれ、一人の人間について語ろうとすれば、こんなに短いエッセイに収められる筈がないものを、村上春樹氏は何とかようやくこれだけ書いた、というところか。これで捨てられているのは父であるようにも思える。『猫を棄てる 父親について語るとき』ならぬ『父を棄てる 猫について語るとき』ではないかと思えてくる。








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