芥川龍之介の『歯車』をどう読むか39 お髯のない「僕」
夏目漱石はいつでも先生で、芥川龍之介はいつでも悩める文学青年だ。その違いはどこから来るのかと言えば、やはり髭であろう。
恐らくそのことに芥川は自覚的であった。
夏目漱石を夏目先生と呼びながら、「僕」は先生と呼ばれることにどうしても耐えられない。
このことはある意味奇妙なことでもある。井伏鱒二、佐藤春夫、菊池寛を先生と呼び、常に弟子であり続けた太宰治の羞恥心とは別の、そしてまたここにわざとらしく告白されている罪の意識などというものとは全く無関係な、「先生ではない気質」というものが芥川にはあったのではなかろうか。お父さんであることさえ苦痛なのに、その上先生と呼ばれなくてはならないことに我慢がならない。そんな我儘のような自由さが芥川にはある。
例えば三島由紀夫は先生と呼ばれることを恥じる羞恥心に欠いていた。そしてある日スポーツジムでたまたま原稿用紙を抱えていた浅田次郎を見て厭な顔をした。こういう捻じれは夏目漱石にはない。英語でも小説でも自分が教えられるものはその辺の子供にでも押しかけて来た女にでもなんでも教えたし、文学青年を毛嫌いすることもなかった。夏目漱石はいつでも先生であり、三島由紀夫は先生ではなかった。
芥川龍之介にも教師経験はある。しかし教師にはなり切れなかった。
こんな頓珍漢な話もあるが、やはり芥川龍之介は誰の先生でもない。そのことは『歯車』に現れる四つの「ひげ」が象徴的に表していよう。
いや、はっきりとは書かれてはいないが牧羊神の表情を示す屋根裏の隠者ももみあげから顎にかけてやはり豊かな髭を蓄えていたことだろう。妻の弟も無精ひげを生やしている。そしておそらく「僕」にはお髭がない。髭を生やすほど偉くなれないからだ。冗談でも吾輩と言ってみることも出来ない。偉くなってしまうことへのうっすらとした軽蔑がこの「ひげ」の例示には込められているとみていいだろう。
この生徒に嘗められ切った先生よりも「僕」の目の方が可愛らしいだろう。それにしてもさすがに異常だ、嘗められ過ぎているなと改めて思えばこそ、ここには「僕」が先生であることに対する困難さが示されていると見ることも出来ようか。
そうでなければやはり「膝の上に坐り、片手に彼女の頸を抱きながら、片手に彼女の頬をさすっていた」というふるまいは変だ。
先生になれない可愛らしい「僕」を描いて、この期に及んでまだ女にもてようとしていたのか、龍之介! とは言うまい。「僕」の持っている神経、とはある意味の清潔さである。
こうせざるをえない、それは「気質」というもので芥川の神経は潔癖性に働いた。精神病の狂人のふるまいではない。それは繰り返しになるがこんなところにも表れている。
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姉の家だから昼飯くらい世話になってもいいじゃないか、鰻飯くらい出前してもらえばいいじゃないかと思うが、「僕」にはそれができない。親子丼が食べられない。それが『歯車』のルールだからだ。
いつの間にか容易く偉くなり、先生になってしまう人は多い。「僕」はそうではない。そういう神経を持つているのだ。その神経は最後まで持っている。この潔癖症の「僕」にあだ名をつけよう。
芥川龍之介。
ここは泣くところだ。
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