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そうではない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む34

 侯爵は一九〇〇年、オリンピック国際競技の折のパリで宮にお近づきになり、夜の遊びの指南をしたりしたので、御帰朝後も洞院宮は、
「松枝。あの三鞭酒の噴水のある家は大そう面白かつた」
 などと二人だけに通じる話を好んでなさつた。 

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

明治二十八年      一歳
明治二十九年      二歳   
明治三十年       三歳   
明治三十一年      四歳
明治三十二年      五歳   
明治三十三年      六歳    パリオリンピック 
明治三十四年      七歳
明治三十五年      八歳
明治三十六年      九歳
明治三十七年      十歳    御幸   得利寺附近の戦死者の弔祭
明治三十八年      十一歳   日露戦争終結
明治三十九年      十二歳
明治四十年       十三歳   お裾持ち
明治四十一年      十四歳
明治四十二年      十五歳
明治四十三年      十六歳
明治四十四年      十七歳
明治四十五年/大正元年 十八歳   学校で日露戦役の話が出た時

 なるほど松枝侯爵の旅行先はイギリスだけではなさそうだ。しかしいかにもふらふらと遊び過ぎのようだ。日清戦争と日露戦争に挟まれたパリオリンピックで遊んでいる。

 そして息子の清顕は、戦死した二人の叔父の写真を眺めてこんなことを思ってみる。

 僕は感情の血を流すやうに生まれついてゐる、決して肉体の血は流さないだらう。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 多分大正三年には第一次世界大戦がはじまる。日米開戦論は、まずはアメリカで日露戦争終結後には始まっていた。そのじわじわした感じというものには大正元年には兆していた筈だ。しかし清顕には自分自身の戦争の予感というものがまるでない。やがて五位となることが約束された侯爵の嫡男であれば芋粥も好きなだけ食べられるし、徴兵は免じられるのであろうか。

 そのあたりの詳細はさておくとしてもこの親子の大げさな戦争との無縁ぶりは三島由紀夫自身と比較して論じられても良かったところではないか。
 三島由紀夫自身は当時の戦争には無関心で、父親はナチス主義者であったことがよく知られている。三島由紀夫の父親像はどちらかと言えば本多家の父親像に近く、松枝侯爵をそのまま三島由紀夫の父親の投射と見做すことは難しい。
 三島由紀夫は父親に対する反発を隠してはいない。父親というものは常に息子に反発されるものではあるのだが、ただ詩を書く少年としての自分を清顕に投射し、そこからただ反発の対象としての松枝侯爵、あるいはその父、維新の功労者というものを根無し草で持ってきたとも思えない。

 また前回述べた「鹿児島」問題は、十八章でこんな奇妙な言葉として現れる。

 それにこの豪商の家は、薩長政府と持ちつ持たれつの仲をつづけ、父の代から、田舎者に対するひそかな軽侮が、かれらの新しい不屈の優雅の核をなしてゐた。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 薩長政府とはあまり良い意味では使われない言葉である。事実新政府などと言ってみても実態は薩長政府であるわけなのだが、その薩摩から松枝と飯沼を引っ張ってきた三島に何か明確な狙いがあることまでは確かである。

 しかし平野啓一郎の『三島由紀夫論』ではまたそのことが明確に説明されていないのではなかろうか。少なくとも三島は現に反政府であるだけではなく、何かしら反薩摩的な根拠を持っていたのではないか。この問題は熊本出身の蓮田善明と三島由紀夫との間に一体化の願望があるとみなす立場から、具体的な検証が必要であろう。

 それにしても天才・平野啓一郎の筆は「58 自己正当化のための自殺」から「60 本多の生と死 」にかけて異常なほどにさえまくる。ここは見事としか言いようがない。このとどめを刺すようなラストスパートに編集者が目を奪われたことは想像に難くない。つまり高級ながんもどきのように余計なことを考えさせるような隙が無い程言葉がみっちりと詰まっている。ここは実に素晴らしい。やがては国語のテストに使われそうだ。

 しかし結論にはいささか隙がある。

 精神的には、急激に第一期の十代の戦争体験へと回帰していった。 

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 このことはそもそも第一期の作品群を検証していないことから、いきなり結論で持ち出してはいけない内容である、と普通は学生ならば論文指導を受けるであろう。結論とは本質的にそういうもので検証なしに持ち出してはいけないものだ。

 例えば『花ざかりの森』と『豊饒の海』を比較して「海」のモチーフの反復を見るような類書を何冊か目にして、そのことはもう片付いたような気分になっているのかもしれないが、そもそも平野啓一郎の『三島由紀夫論』全体が「最後の言葉」、死の一週間前の対談にかなりイメージを引きずられていて、蓮田善明を呼び捨てにするなどの三島のレトリックが上手くつかめていないところがある。「精神的には、急激に第一期の十代の戦争体験へと回帰していった」という記述も悪く言えば三島の表向きの言葉の受け売りであり、平野啓一郎の『三島由紀夫論』の中では作品論+伝記的記述としてはほぼ触れられていないことである。

 また「十代の戦争体験」の実際は坊城俊樹と交際を始め「酸模――秋彦の幼き思ひ出」を書き……と殆ど文芸体験そのものであり、本当の戦争体験と言えるのは二十歳の遺書と徴兵検査、そして勤務動員程度のものであった。ここに回帰しても何も始まらない。

 また平野は、この徴兵検査に関して、このように述べている。

 徴兵検査・入隊検査で、"健康な男子"という、近代以降の生政治が標準化した目的に満たないと国家から認定された彼は、生き残ることと引き換えに、戦争という国家的な「大義」への参加から排除された。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 三島は徴兵検査に「第二乙種で合格」しており、この点は何か複雑な事情があるのかもしれないけれども今のところ単なる誤解である。三島はあれやこれやと本人の意志と無関係なところでのものにより結果として入隊しなかっただけである。これが新発見の事実なら素晴らしいが、おそらくそういうことでもなかろう。

 後の天皇崇拝からは意外ともとれる…

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 やはりこれが平野啓一郎の「三島由紀夫の天皇論」の限界だろうか。平野も世代的にはおそらく昭和天皇に関しては「あっ、そう」とだけ言う鷹揚なお爺さんというイメージしか持たず、天皇の写真でさえ確認していないのではなかろうか。三島由紀夫は世代的にそうではない天皇を見てきたはずだ。


 三島由紀夫は一体どの天皇を崇拝していたというのだろうか。ここはよく考え直してほしい。私も三島由紀夫について調べるまで天皇のなどほとんど一つしか知らなかった。

 平野啓一郎自身が「15 二つの天皇観」で述べている通り、神主の川崎君は、終には「何者かのあいまいな顔に変容して」死ぬこととなる。

 これが、「天皇の化身」であることは、「創作ノート」で確認されるが、注目すべきは、「何者かのあいまいな」という表現である。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 問題はこれが「顔」であるということだ。これを平野は天皇の同一性の不確かさと捉えてはみるが、実際よく調べてみると天皇のはあいまいなのである。この点昔の人、或いは調べた人ほど曖昧になるのではなかろうか。

 しかも、共産主義を否定する彼にとって、この資本主義社会は、本多繁邦の戦後の蓄財が示す通り、人間が生きている限り、不可避的に荷担せざるを得ないシステムであり、それに対する最も苛烈な批評は、正に死そのものなのである。そして、この絶対的な〈アンティ〉を、文化として実体化する存在こそが、終戦によって、一旦は訣別したはずの天皇であった。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 ここは途中まで正しいようで少しロジックが撚れている。

 まず「共産主義を否定する彼にとって」という前提として資本主義化に生きなければならないというところまではいいとして、かりに死がその批判であるとしたら、それは先ず自死でなくてはならず、日本が共産主義化した場合に自死がその批判になるのと同じ事なので、あまり意味のある指摘とは成っていない。
 むしろ「58 自己正当化のための自殺」で指摘していた「存在自体の否定による、徹底した他者への"そうではない"という拒絶」というあらゆる意味を封印してしまう自死の役割と矛盾する。

 例えば餓死はこの資本主義社会そのものへの批判とはならず憲法が保障する福祉国家としての日本への批判とはなりうる。
 しかし、

 餓死? となる餓死もある。

 今、自死でさえ明確に資本主義社会になり得るかどうかははなはだ怪しい。

 また三島を前提にしなければ資本主義社会に対する最も苛烈な批判は清貧であろう。

 また経済の問題が「そして、この絶対的な〈アンティ〉を、文化として実体化する存在こそが、終戦によって、一旦は訣別したはずの天皇であった」と文化の問題に置き換えられていて、しかも内容が……

 一応天皇制資本主義というものはないし、天皇は何も実体化しない。象徴だから。

 それと天皇制は戦争前後で維持されたので「訣別したはず」という事実もない。人間天皇は有言実行とばかりに全国行脚を始めて、むしろ文化として定着していく。それまでは御真影であったものが実体として国民と出会うことになるのだ。

 ここから数行の天皇論は繰り返し否定したとおりである。

 概して平野啓一郎の『三島由紀夫論』は天皇を持ち出した瞬間に中学生レベルに落ちる。

 あとがきを読むと平野啓一郎と三島由紀夫の出会いが『金閣寺』であったことが解る。ただ十代とあるので何歳の時のことかは解らない。私も十代で三島作品の殆どを読んだが文体に魅了されるどころか「解らない屁理屈を楽しむのが三島文学」かと圧倒された。あとで読み直してみて、確かにその当時知る由もない平安以前の語彙に「まあ、無理だな」と納得した。やはり平野啓一郎は物が違う。

 ここではまだ平野啓一郎の『三島由紀夫論』を総括はしない。

 ざっと一回読んだだけで総括されてはたまらないだろう。

 ただ最初に出会った『金閣寺』と天皇の結び付けの強引さにおいて平野啓一郎の『三島由紀夫論』が根本的に失敗しているとは指摘しておこう。

 この後、まだ私に命があれば、『春の雪』の読みにおける抜けや見逃しなどの確認をしばらく続けてみたい。

 あくまでも生きていればの話である。


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