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「イカは皮つきでは刺身にならない」(江藤淳) イデオロギーは引きはがせるか




 江藤 いや、それでは困る。つまり、イデオロギーというのはイカの皮なんですよ。一見すると皮だか身だか解らない。しかし、皮つきでは刺身にならないから、皮をむくでしょう。その皮がイデオロギーですよ。

 川村 そのイカの皮が怖い。

 江藤 怖いといえば怖いけれども、その皮をパーッとむかなければ本当に旨い肉は出てこない。イデオロギーなんて、せいぜいこの二百年かそこらのものです。それがアメリカの独立およびフランス革命以来、大変におびただしいエネルギーを生んだ。十九世紀の小説の隆盛は、まさにイデオロギー全盛時代の副産物の一つだったと言えるかもしれない。しかし、そんなものがないときだって、文学は豊かであり、面白くもあった。(「昭和の時評をめぐって」江藤淳『言葉と沈黙』所収/文藝春秋/平成四年十月一日)

 「イカは皮つきでは刺身にならない」と江藤淳は語るが、げそは皮をむかない。果たして文学作品からイデオロギーをむくことなど可能なのだろうか。

 それから、作家として見ると、僕は三島さんは亡くなった時限界を通り越していたと思う。『豊饒の海』四部作というのは、最近読み直していないんだけど、当時、僕はちょっと見るに耐えなかったな。つまり、スカスカになってきている、という感じがした。

 だいたい長編が書ける人じゃなかったですよ。あの人は戯曲がうまくてね。はっきり言って、戯曲がいちばん、それも一幕ものがうまかった。

 その次には短編がうまくて、長編は、『鏡子の家』で挫折してからってものは、あの人は、本当に想像以上の痛手を被っていた。だからあの四部作を書いたんだと思うんですけど、これもやっぱりね。十五年前の印象で簡単に言っちゃうのはいけないかもしれないけれども。(「六十年の荒廃」江藤淳『言葉と沈黙』所収)

 これも実にありふれた今ではどこにでも転がっている三島観だ。石原慎太郎、野坂昭如他、三島由紀夫に近しい作家たちからこの程度のことが言われていたのは事実。しかし細かい点を指摘すれば、三島は『鏡子の家』で挫折したわけではなく、新境地として思い切ってぼんやりとした戦後を頑張って書いてみたが周囲の評判があまりにも悪くがっかりしたのである。その後にも『午後の曳航』『美しい星』『絹と明察』『命売ります』などの長編小説があり、どれもこれまでの三島由紀夫作品とは少しテイストが異なるも個性的で新しい試みであった。評判というだけなら『命売ります』は平成時代に再びヒットするなど、独特の軽みとユーモアを獲得した面白い作品だ。短編では三島が一押しする『憂国』そして問題作『英霊の声』も『鏡子の家』以降に書かれている。もっとも1968年から1969年の晩年に『わが友ヒットラー』『癩王ノテラス』『椿説弓張月』が立て続けに書かれていることから、三島の戯曲は凄いという印象を持つ人がいることはある程度しょうがない。※1

 またいささか不確かな情報ながら、元々タチであった三島が死の三年前くらいからネコに変わったという説がある。(福島次郎『三島由紀夫――剣と寒紅』)順番としては肉体改造、女性化、表面的な右傾化ということになる。このいずれの行動も江藤淳の文脈における「行動」とは程遠く、江藤淳がそこまで見通していないとしても「病気」と呼びうる変化として何か異質なものを感じていたとしても可笑しくない。江藤淳の拒絶は堀辰雄、庄司薫、村上龍、村上春樹などに対していささか非論理的に頑ななものだが、江藤淳がただそうしたスタイルだけの評論家であったとも私は思わない。、

 肉体改造、女性化、表面的な右傾化のうち女性化は確かに『暁の寺』に見られなくもない。写真では徹底的に見られることにこだわった三島が、反対に覗かれる月光姫を描く。三島が川端康成の『眠れる美女』を絶賛するのも、案外そうした受け身の快感に惹かれたからかもしれない。死の一週間前の対談でつい噴出した女言葉からも、そして死の秘密を稲垣足穂にゆだねたこともからも、ある種病的な状態であったということは言える。

 しかし徹底した取材と緻密な構想に基づいて書かれた『豊饒の海』四部作は今読み直してみれば、やはり日本文学の宝であると確信できる。春の宮の許嫁を孕ませるという大きなドラマを豊かな語彙と華麗な文体で包む『春の雪』、鮮やかな法廷劇を見せつける『奔馬』、澁澤龍彦的変態性を発揮する『暁の寺』、ややスケジュールにせかされながらも見事な仮構の現実化を果たした『天人五衰』、こんなものを書くことのできる作家はもう現れないだろうし、これまで三島以外にはいなかった。

 ここではあくまでスカスカという印象批評しか行われていないので反論が難しいが、そんなことを言ってしまえば、三島はもともと三島由紀夫という仮面をつけてパペットプレイを続けていたのであり、それはある意味ではどの作家についても言えることなのではなかろうか。

 そういうふうに考えると、例えば『それから』について武者小路実篤でしたか、「あれは運河だ、川ではない。不自然なところが多い」と言いましたが、その通りだと思う。きちんと書けてはいますけど、どこか一つうまくいっていないところがある。『彼岸過迄』でも『行人』でも全部、小説として余ってしまう部分がある。『明暗』は結局終わらなかったんじゃないかという気もしているのです。(「漱石と言葉、漱石と沈黙」江藤淳『言葉と沈黙』所収)

 この通り、夏目漱石作品だって人工的と言って言えなくはない。武者小路実篤はいわゆるジーニアス系なので、拵えることができないだけだ。それにしても、いや『明暗』はこう終わると証明できないのが残念である。『彼岸過迄』では森本の存在がやや余っている感じもあろうか。しかし『行人』に関して言えば、これは江藤淳の読み落としであろう。病院でぐずぐすしている三沢にはちゃんと許嫁がいたわけだし、例の解り難い設定はちゃんと読めばすとんと腑に落ちる仕掛けになっている。『それから』だけではなく『坊ちゃん』も『趣味の遺伝』も『こころ』も、夏目漱石作品はどれも不思議な話だ。小説として余りがないと言えば、例えばチェーホフ作品の多くがそうであろうか。ただ長編小説は本質的に小説として余ってしまう部分があるのではなかろうか。

 いずれにしてももう少し具体的に書いてもらわないと、具体的な反論ができない。当然全く賛同もできない。第一イカは文学ではない。皮ごと焼いて食べればいい。


※1 中上健次との対談において江藤淳は『椿説弓張月』を帝国劇場で鑑賞した体験を中上と共有し、『椿説弓張月』およびそれを書いた三島由紀夫をかなり褒めている。





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