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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する184 夏目漱石『明暗』をどう読むか33 そんなことを言うはずがない

秀子さんのおっしゃる通りよ

「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。嫂に対して何とか説明しなければならない位地に追いつめられた彼女は、こう云いながら腹の中でなおの事その嫂を憎んだ。彼女から見たその時のお延ほど、空々しいまたずうずうしい女はなかった。
「ええ良人は強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。
「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」
「いったい何が強情なんだ」
そりゃあたしにもよく解らないけれども
「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」
「そうね」
「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」
「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで効目がなければ仕方がありませんからね」
「じゃどこが強情なんだ」
「どこがってお聴きになっても駄目よ。あたしにもよく解らないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」
「馬鹿」
 馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。

(夏目漱石『明暗』)

 互いに自律した三つ主体が、会話という相互行為の場において、しぐさや表情、言葉の抑揚などを駆使して、それぞれの目的を達しようとした時、主体は互いに牽制し合い、自律性を制限されていくことがある。

 と、漱石は実地で示している。理屈は捏ねない。少なくともお延はお秀と正面からぶつからないように上辺だけ調子を合わせることによって、その非論理性を津田由雄に突き崩させ、間接的にお秀を圧迫していく。柔らかく火に油を灌いだ形だ。

 お秀はやはり嫂を直接攻撃できないことから苦し紛れに「兄さんが強情なんですよ」と言ってはみるものの、その批判はさして芯を食っていない。なんなら問題はそこではない。

お秀お前の云う通りだ

 津田は一種嶮しい眼をしてお秀を見た。その中には憎悪が輝やいた。けれども良心に対して恥ずかしいという光はどこにも宿らなかった。そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚ろかされた。彼は彼に支配できる最も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対の事を云った。
「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用だ。兄さんはまた改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行ってくれ」
 お秀の手先が怒りで顫えた。両方の頬に血が差した。その血は心のどこからか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。色が白いのでそれが一層鮮やかであった。しかし彼女の言葉遣いだけはそれほど変らなかった。怒りの中うちに微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。
「嫂さんどうしましょう。せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」
「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」
「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」
「ええ良人には絶対に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」
「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別ッこなのね」
「それでいて、ちっとも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」
「だって――」
 お延は皆まで云わせなかった。
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵えるだけなのよ」
 彼女はこう云いながら、昨日岡本の叔父に貰って来た小切手を帯の間から出した。

(夏目漱石『明暗』)

 兄に礼を言われてお秀は怒りで震える。その言葉の意味に反してその心にまるで誠実さがないことがあからさまだからだ。つまり当たり前のことながら情報伝達はマルチモーダルであり、テキスト上の意味だけによるものではないということだ。

 だから秀子は「嫂さんどうしましょう。せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」と嫌味たらしく言わねばならなかった。津田由雄に誠意があればこんな言い方はしなくて済んでいた筈なのである。これは確かに意地の悪い言い方になっている。最初からこんなつもりで金を用意したわけではなかろうから本意ではない。本意ではないが自律もできていない。「お延は皆まで云わせなかった」として話を遮られることさえあるのだ。

 そしてよくよく考えるとこの流れ、つまり「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」と言ってさっさと小切手を取り出すタイミングを計っていたお延が「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」と言ったところで、少し態度を変化させていることが解る。

 秀子を調子に乗せたところで突き落とす算段が加わり、「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵えるだけなのよ」と自分が津田に可愛がられるだけの女ではなく、まだほかにも大事にしている人があろうがなかろうが、自分こそは良人を支える妻なのだという見栄を切ることになる。言ってみれば『虞美人草』で藤尾がやっつけられる場面みたようなものである。

戯曲的技巧

 彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。前後の行きがかりと自分の性格から割り出されたその注文というのはほかでもなかった。彼女は夫が自分としっくり呼吸を合わせて、それを受け取ってくれれば好いがと心の中で祈ったのである。会心の微笑を洩らしながら首肯いて、それを鷹揚に枕元へ放り出すか、でなければ、ごく簡単な、しかし細君に対して最も満足したらしい礼をただ一口述べて、再びそれをお延の手に戻すか、いずれにしてもこの小切手の出所について、夫婦の間に夫婦らしい気脈が通じているという事実を、お秀に見せればそれで足りたのである。
 不幸にして津田にはお延の所作も小切手もあまりに突然過ぎた。その上こんな場合にやる彼の戯曲的技巧が、細君とは少し趣きを異にしていた。彼は不思議そうに小切手を眺めた。それからゆっくり訊いた。
「こりゃいったいどうしたんだい」

(夏目漱石『明暗』)

 津田はお延の思い描いたシナリオ通りには動かない。夫婦らしい気脈が通じていることをお秀に見せつけようとしたのをはぐらかされている。ここまでお秀はかなりお延にコントロールされてしまった。案外自律しているのが津田である。頑固だから自律しているというよりは、自分がないから自律しているようにさえ思える。

 まず嬉しがらない。

 ここも解らないところである。金が必要なところに金が出てきた。そこで全く喜ばない。

 お延でなくともここは喜ぶべきところだ。お秀がやり込められたのを気の毒がる気配もない。ある意味「無関心」といって良いのかもしれない。自分が金がないことにも、金が足りないことにも、金がもらえることにも関心がないように見える。
 この津田の態度は一応こう説明される。

 彼は金を欲しがる男であった。しかし金を珍重する男ではなかった。使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を軽蔑する点において、お延の言葉を心から肯定するような性質をもっていた。

(夏目漱石『明暗』)

 所詮はたかがこのくらいのお金なのだという理窟である。しかしそのたかがこのくらいのお金がなくて、「できなければ死ぬまでの事さ」と言ったのも津田である。これほど軽い命もなかろう。

 あるいはそれくらい自分を軽視しているのだ。

 その方向性はけして則天去私には結び付きそうにはないが、何か常識とはかけ離れた、奇妙なところに向かっているように思える。


津田はにやにやと笑った

 先刻から二人の様子を見ていたそのお秀はこの時急に「兄さん」と呼んだ。そうして懐から綺麗な女持の紙入を出した。
「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」
 彼女は紙入の中から白紙で包んだものを抜いて小切手の傍へ置いた。
「こうしておけばそれでいいでしょう」
 津田に話しかけたお秀は暗にお延の返事を待ち受けるらしかった。お延はすぐ応じた。
「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」
「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」
 二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。津田はまた辛防強くいつまでもそれを聴きいていた。しまいに二人はとうとう兄に向わなければならなくなった。
「兄さん取っといて下さい」
「あなたいただいてもよくって」
 津田はにやにやと笑った。

(夏目漱石『明暗』)

 ついさっき「できなければ死ぬまでの事さ」と言っていたのに、すっとぼけていたらいつの間にか二口も金の手当てができた。しかもあの生意気な妹は「兄さん取っといて下さい」と言い出す始末。これは津田だけではなく読者もにやにやしていいところだ。

 なにしろ『道草』ではみんなから金をくれ、金をくれと言われて困っていたのに、『明暗』では金を貰ってくれ、貰ってくれと言われる。

 まあそれは置いておいても、津田がにやにやするのはどんなものか。確かにお秀が「兄さん取っといて下さい」と言わされてしまっている状況そのものはおかしいが、にやにやはどうなのだろう。それではお秀が少し可哀そうなのではなかろうか。

 そしてお延の「もう間に合ったんですから」はさらに酷い。津田にお礼を言うように仕向けておいてのことだからやはり人が悪い。出させる気満々だったことは明らかなのだ。ついでにこんなお秀の性格からしても一旦出したら引っ込められないことも承知の上でのことだろう。これで美人のお秀に対してお延は容貌の劣者なので、ここはお延が少し悪く見える。


どっちも本当です

「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。いったいどっちが本当なんだい」
 お秀は屹っとなった。
「どっちも本当です」
 この答は津田に突然であった。そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の機鋒を挫いた。お延にはなおさらであった。彼女は驚ろいてお秀を見た。その顔は先刻と同じように火熱っていた。けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、ただの怒りばかりではなかった。口惜しいとか無念だとかいう敵意のほかに、まだ認めなければならない或物がそこに陽炎った。しかしそれが何であるかは、彼女の口を通して聴くよりほかに途がなかった。二人は惹きつけられた。今まで持続して来た心の態度に角度の転換が必要になった。彼らは遮る事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聴こうとした。彼らの予期と同時に、その言葉はお秀の口を衝いて出た。

(夏目漱石『明暗』)

 この「どっちも本当です」とうところのお秀の態度の変化はお延と津田との駆け引きの中で已むに已まれずそうなったところのものである。自律的な個人である筈の一人の人間の態度が相互のやり取りの中で変化していくさまがここでは箱庭的な思考実験のように描かれている。もちろん自分の意思があり、自分の義務を果たすと同時に兄に感謝されたいという目的があってのことだが、目的はもうどれも挫かれた。残っているのは維持だけになってしまった。

 そして外国人読者を驚かすお秀の大演説が始まる。後半が書かれなかった『明暗』においては一番のクライマックスといって良いかもしれない。

 

兄さんから冷笑かされて見ると


「実は先刻から云おうか止そうかと思って、考えていたんですけれども、そんな風に兄さんから冷笑かされて見ると、私だって黙って帰るのが厭になります。だから云うだけの事はここで云ってしまいます。けれども一応お断りしておきますが、これから申し上げる事は今までのとは少し意味が違いますよ。それを今まで通りの態度で聴いていられると、私だって少し迷惑するかも知れません、というのは、ただ私が誤解されるのが厭だという意味でなくって、私の心持があなた方に通じなくなるという訳合からです」
 お秀の説明はこういう言葉で始まった。それがすでに自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。彼らは黙ってその後を待った。しかしお秀はもう一遍念を押した。
「少しや真面目に聴いて下さるでしょうね。私の方が真面目になったら」
 こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
「もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。何しろ嫂さんさえここにいて下されば、まあ大丈夫でしょう。いつもの兄妹喧嘩になったら、その時に止めていただけばそれまでですから」
 お延は微笑して見せた。しかしお秀は応じなかった。

(夏目漱石『明暗』)

 なんだって兄貴が肛門の手術をしたそばから、しかも肛門が痛いと言っているのに病院に押しかけて説教なんかしているのかね。このバカ女は、と思わないではないところ。

 しかしこれは元々は病人の見舞いの序に金の工面をしてきた秀子の親切から始まっていて、その親切がどういう具合かねじれに捻じれて、終いには津田とお延が夫婦二人がかりで秀子を追い詰めた結果なのである。津田の入院手術を秀子に電話したのもお延、津田の借金に堀を巻き込んだのは津田。秀子は飽くまでも巻き込まれた側なのだ。秀子にそもそもの罪があったわけではない。巻き込まれて馬鹿にされたから文句を言いたい。

 そのお秀の大演説に関してはまた明日。


[余談]

 岩波は基督教に注を付けて、キリスト教、特に救世軍には慈善と説教のイメージが強かったとする。お秀は基督教信者であることを否定しない。このキリスト教はプロテスタントである。

 一方、芥川龍之介の切支丹ものは大別すれば概ねカソリック系のキリスト教をネタにしている。つまり社会現象として現に広まりつつあるプロテスタントのキリスト教に対しては、芥川は背を向けていたことになる。一方漱石にとって基督教は時代の風俗だったのだろう。

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