秀子さんのおっしゃる通りよ
互いに自律した三つ主体が、会話という相互行為の場において、しぐさや表情、言葉の抑揚などを駆使して、それぞれの目的を達しようとした時、主体は互いに牽制し合い、自律性を制限されていくことがある。
と、漱石は実地で示している。理屈は捏ねない。少なくともお延はお秀と正面からぶつからないように上辺だけ調子を合わせることによって、その非論理性を津田由雄に突き崩させ、間接的にお秀を圧迫していく。柔らかく火に油を灌いだ形だ。
お秀はやはり嫂を直接攻撃できないことから苦し紛れに「兄さんが強情なんですよ」と言ってはみるものの、その批判はさして芯を食っていない。なんなら問題はそこではない。
お秀お前の云う通りだ
兄に礼を言われてお秀は怒りで震える。その言葉の意味に反してその心にまるで誠実さがないことがあからさまだからだ。つまり当たり前のことながら情報伝達はマルチモーダルであり、テキスト上の意味だけによるものではないということだ。
だから秀子は「嫂さんどうしましょう。せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」と嫌味たらしく言わねばならなかった。津田由雄に誠意があればこんな言い方はしなくて済んでいた筈なのである。これは確かに意地の悪い言い方になっている。最初からこんなつもりで金を用意したわけではなかろうから本意ではない。本意ではないが自律もできていない。「お延は皆まで云わせなかった」として話を遮られることさえあるのだ。
そしてよくよく考えるとこの流れ、つまり「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」と言ってさっさと小切手を取り出すタイミングを計っていたお延が「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」と言ったところで、少し態度を変化させていることが解る。
秀子を調子に乗せたところで突き落とす算段が加わり、「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵えるだけなのよ」と自分が津田に可愛がられるだけの女ではなく、まだほかにも大事にしている人があろうがなかろうが、自分こそは良人を支える妻なのだという見栄を切ることになる。言ってみれば『虞美人草』で藤尾がやっつけられる場面みたようなものである。
戯曲的技巧
津田はお延の思い描いたシナリオ通りには動かない。夫婦らしい気脈が通じていることをお秀に見せつけようとしたのをはぐらかされている。ここまでお秀はかなりお延にコントロールされてしまった。案外自律しているのが津田である。頑固だから自律しているというよりは、自分がないから自律しているようにさえ思える。
まず嬉しがらない。
ここも解らないところである。金が必要なところに金が出てきた。そこで全く喜ばない。
お延でなくともここは喜ぶべきところだ。お秀がやり込められたのを気の毒がる気配もない。ある意味「無関心」といって良いのかもしれない。自分が金がないことにも、金が足りないことにも、金がもらえることにも関心がないように見える。
この津田の態度は一応こう説明される。
所詮はたかがこのくらいのお金なのだという理窟である。しかしそのたかがこのくらいのお金がなくて、「できなければ死ぬまでの事さ」と言ったのも津田である。これほど軽い命もなかろう。
あるいはそれくらい自分を軽視しているのだ。
その方向性はけして則天去私には結び付きそうにはないが、何か常識とはかけ離れた、奇妙なところに向かっているように思える。
津田はにやにやと笑った
ついさっき「できなければ死ぬまでの事さ」と言っていたのに、すっとぼけていたらいつの間にか二口も金の手当てができた。しかもあの生意気な妹は「兄さん取っといて下さい」と言い出す始末。これは津田だけではなく読者もにやにやしていいところだ。
なにしろ『道草』ではみんなから金をくれ、金をくれと言われて困っていたのに、『明暗』では金を貰ってくれ、貰ってくれと言われる。
まあそれは置いておいても、津田がにやにやするのはどんなものか。確かにお秀が「兄さん取っといて下さい」と言わされてしまっている状況そのものはおかしいが、にやにやはどうなのだろう。それではお秀が少し可哀そうなのではなかろうか。
そしてお延の「もう間に合ったんですから」はさらに酷い。津田にお礼を言うように仕向けておいてのことだからやはり人が悪い。出させる気満々だったことは明らかなのだ。ついでにこんなお秀の性格からしても一旦出したら引っ込められないことも承知の上でのことだろう。これで美人のお秀に対してお延は容貌の劣者なので、ここはお延が少し悪く見える。
どっちも本当です
この「どっちも本当です」とうところのお秀の態度の変化はお延と津田との駆け引きの中で已むに已まれずそうなったところのものである。自律的な個人である筈の一人の人間の態度が相互のやり取りの中で変化していくさまがここでは箱庭的な思考実験のように描かれている。もちろん自分の意思があり、自分の義務を果たすと同時に兄に感謝されたいという目的があってのことだが、目的はもうどれも挫かれた。残っているのは維持だけになってしまった。
そして外国人読者を驚かすお秀の大演説が始まる。後半が書かれなかった『明暗』においては一番のクライマックスといって良いかもしれない。
兄さんから冷笑かされて見ると
なんだって兄貴が肛門の手術をしたそばから、しかも肛門が痛いと言っているのに病院に押しかけて説教なんかしているのかね。このバカ女は、と思わないではないところ。
しかしこれは元々は病人の見舞いの序に金の工面をしてきた秀子の親切から始まっていて、その親切がどういう具合かねじれに捻じれて、終いには津田とお延が夫婦二人がかりで秀子を追い詰めた結果なのである。津田の入院手術を秀子に電話したのもお延、津田の借金に堀を巻き込んだのは津田。秀子は飽くまでも巻き込まれた側なのだ。秀子にそもそもの罪があったわけではない。巻き込まれて馬鹿にされたから文句を言いたい。
そのお秀の大演説に関してはまた明日。
[余談]
岩波は基督教に注を付けて、キリスト教、特に救世軍には慈善と説教のイメージが強かったとする。お秀は基督教信者であることを否定しない。このキリスト教はプロテスタントである。
一方、芥川龍之介の切支丹ものは大別すれば概ねカソリック系のキリスト教をネタにしている。つまり社会現象として現に広まりつつあるプロテスタントのキリスト教に対しては、芥川は背を向けていたことになる。一方漱石にとって基督教は時代の風俗だったのだろう。