?の発音は無理 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか⑥
昨日は道子の恋文で鼻を噛んだのは兄ではないかと誤解されているのではないかと書いた。もうずいぶん昔のことのように思えるが、たぶん昨日だ。
時間というのは不思議なもので、隣国の偉い人の顔が変わっても、もう見慣れてしまって笑えもしない。いや不思議なのは人間の方だ。全然欲しくないのに、食べたくなのに、ただ安いというだけで買ってしまった。
いや不思議なのは人間ではない。牧野信一だ。馬鹿なのかと思えばそうではない。
頭の中でカチッと音がした人はどのくらいいるのだろうか。「彼は煙草に火を点けた」とは言ってもこれはライターを使ったのではあるまい。
君千代って誰?
何故壁を見た?
何故泣く?
善人は誰?
勇ましき楽天家は誰?
座布団はあるのか?
道子は何を亢奮している。
そもそも牧野信一はなぜこんな書き方をしている?
これが理解できている人がいるの?
兎に角君千代は誰だかまだ分からない。道子の知っている純の知り合いの女か。純はそれで道子に当てつけるつもり? 勉強をしないアピールなのか?
壁を見たはお前には興味がないよと言うアピールか。猫ならそうなる。
座れと言われて泣いたのは、子供のようにすねているからか。
善人、これが見当たらない。敢えて言えば「幸あれ」と「その幸を配けて呉れ」が重なり、楽天家も善人も道子ということになりそうだが、「幸あれ」とは幸が確定していない人に対して言う言葉で、「その幸を配けて呉れ」とは幸が確定している人に対して言う言葉なので矛盾する。
そこも敢えて解釈すれば「その幸を配けて呉れ」は真心で呟かれているので、純は道子が勇ましい楽天家であり、「悲観的な何か」を見落としていて、そのおかげで現実的に幸をすでに得ていて、自分には幸がないと考えているということなのではないか。
あるいは「善人に幸あれ」とはだれか具体的な善人を想定して言ったのではな、善人ではない自分はどうせ幸を得られないんだよと拗ねているところでの表現なのではないか。
座布団はどうだか。
道子の亢奮はあくまでも勉強しないという感じの純のこのところの意固地さに対しての苛立ちが引き起こしたものであろう。「?に、利己的の調子を強く現して」は無理だ。せめて「あるの」の方だろう。
無意識の動作。確かにそういうものはある。しかしそれを観察し記憶していることは普通出来ない。無意識だから自分では覚えていない。意識の出どころはどこか。
あるいは意識とは何か。牧野もそんな問題を真剣に考えた作家の一人なのだ。純は何かに振り回されている。しかし何が純を振り回しているかと言って、それは純の中の欲や見栄や羞恥心といったもの、価値観やものの考え方といってもいいし、行動心理学的には行動心理といってもいいような心のありようだ。不定形で刻々と変化し、忘れてしまうものだ。
それが自分を乗っ取りでもしているかのような書き方を牧野信一は敢えてしている。何なら自分自身が、座っていたと書かれていない道子を立ち上がらせてしまっことに後で気がついて、慌てて元通り座らせてしまうように、無意識に書くということがあるのだと言わんばかりの書きようである。
座布団があるとかないとか、そんなことも無意識なのである。それは川上未映子が『すべて真夜中の恋人たち』で見せたような、やり口なのであろうか。
しかし実際無意識なのだ。よく読んでみよう。「彼は懐中で堅く手を握つてゐたのに気が附いた」とは書いてあるが、汗をかいていたとは書かれていない。それなのにやったことは「と急いで手の平の汗をシヤツで拭つて」なので、汗は意識されていなくて、その意識されていない手の平の汗がシャツで拭われたと書いているから、ちゃんと無意識が書かれていることになる。この無意識が無意識に書けていたらすごい。
そして右手か左手か、ここでも書かれていない。『爪』でもそうだった。志那虎の旦那なら左だろうが。この右左問題にいつか決着はつくのか。それはまだ誰にも解らない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。
【余談】
不死身の杉元みたい。季節は夏なのに。
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