自覚を超越したもの 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか④
多くの人は書いていないことを読む。それはすべての文章が物事のほんの一部しか語りえず、常に場に寄りかかり、省略されていて、不十分でしかなく、やむを得ず脳が情報を補いながら読ませているからだ。多くの書き手はそのことを多少なりとも知っていて、場合によってはその仕組みを利用して書く。仄めかしや匂わせというものはそうした種類のレトリックだ。
とにかく悲惨なことは起きた。地震で潰れた家の下敷きになった自分の女房を瓦で叩き殺したのだから、これは悲惨だ。これ以上悲惨なことはなかろう。
そう思います?
口の中にゴキブリ百匹を詰め込まれて殺される方が悲惨ではないですかと言いたいわけではない。
中村玄道は小夜を殺したのであろうか?
瓦で何度も頭を叩かれて意識は朦朧とはしたもののまだ死んでおらず、やはり生きたままじわじわと焼け死んだということはないだろうか。
そういうことはなかったようだ。
中村玄道は妻を殺した。そして小夜は焼かれたのだ。衣服が焼け、丸焦げになっただけで骨になることはなかろう。その姿を中村玄道は見つめていたのだ。それを「妻の最期を悲しみました」で済ましている。焼け跡から丸焦げの死体を取り出すのは炊き出しの握り飯を食べた後であろう。握り飯を食べながら中村玄道は死体の始末ついて考えていたことだろう。火葬場も壊れていただろうから、現実的には土葬しかあるまいと。ならばどこかに穴を掘り、そこに埋めるしかないなと。「妻の最期を悲しみました」で省略された背後にはどうしても片付けねばならないあれこれがある。
そういわれてみると誰も口に出さないだけでほかにも類似のケースがありえたのではないかと考えてしまう。また関東大震災でも同じようなことがありえたのではないかと考えてしまう。そんなことは誰も書いていないのに、つい考えてしまう。そして書いてもいないのに、校長は男だと思い込んでいる。
そしてまだ話が半ばだと気が付くと同時に、では何故今になってこんなに流暢にこんな話をしてくるのだろうと実践倫理学の先生の立場になって考えてしまう。
いやいやいや。地震でつぶれた家の下敷きになった女房が生きたまま焼かれるのが見ていられなくて瓦で叩いて殺しました……これで十分悲惨な話だし、トラウマになる。実践倫理学の先生に、あの時どうするべきだったのかと質問を投げかける材料として十分なものだ。
それなのにまだ何かありそうだ。
N家の二番娘と再婚して静かに暮らすわけではなさそうだ。となるとやはり楊柳観音の意味合いが気になってくる。「もっと深い所に潜んでいる原因」とは何なのか。そして「私はもう二度と人並の生活を送る資格のない、憐むべき精神上の敗残者になるよりほかはなかったのでございます」ということは今はどんな生活をしているのか。身なりはよいからでたらめな生活をしているわけではあるまい。稽古とは何の稽古なのか。N家は何故N家なのか。
うむ。出稽古が「家庭教師」に変換されて、結局何の稽古なのか説明されていない。
そして「東京遊学のごときも、結婚した暁には大いに便宜があるだろう」「N家の資産にも目がくれましたので」とはかなり露骨ではないか。確かに誰でも金は欲しい。しかしお金だけで人が幸せになることは絶対にない。この何年間か、いや何十年か、私は屈託なく大声で笑ったことがない。今渋谷でも池袋でも街を歩けば屈託なく大声で笑っている人たちは沢山いるが、私は笑うことができない。お金はないよりあった方がいい。しかしお金なんて言うものは唯のお金に過ぎない。そんなものを追いかけてどうするのだ。
それにしても解せないのは「先方から達っての所望だ」というところだ。一体中村玄道と名乗る男のどこに魅力があったのか?
芥川作品において内省による自己分析が行われ、自分の心のありようを探っていく語りはそう多くない。そういうものを散々『それから』や『こころ』や『明暗』で見てきた感覚でいえば、むしろ芥川はそういうやり方は避けていたのではないかと疑うほどだ。
しかし『疑惑』においては、まず、
「しかし私も何を申したか、とんと覚えていないのでございます」「吐息をしたのは彼だろうか。それとも私自身だろうか」「私の自覚を超越した秘密」と尋常ではない精神のありようを見せてくる。「N家の資産にも目がくれましたので」という自己分析はシンプルに完結している。「何か漠然とした不安がありました」でも曖昧ながら自己分析としては完結している。「私の自覚を超越した秘密」ということは単に自分の中に無意識の領域があるのだという意味ではない。超越なのだから、自分の意識ではないところに何か秘密があるというのだ。
漱石の影響かどうかは定かではないが(私はむしろそうではないのではないかと考えている。)芥川もウィリアム・ジェームズを読んでいた。それを漱石のように冗談めかして披露することもなければ、本当にその世界観に影響されたようなところが芥川には見られない。漱石の態度は徹底していて、英語が解るには英文学が解らなければならない。英文学が解るには、英文学だけを読んでいるだけでは駄目で、心理学を研究しなければならないとあれやこれやの本を読んだ。ウィリアム・ジェームズやアンリ=ルイ・ベルクソンなどを読むのはかなり後のことだが、漱石の出発点からしてその最大の関心事は人の心だった。
芥川にはそういう方向性がそもそもない。英文学を極めようともしてなかったし、心理学を掘り下げようという気もさらさらない。しかしながら『芋粥』の利仁の支配、『お富の貞操』の「なんだかすまない」に見られたような極めて独特な、味方によってはかなり先進的な意識に関する知見を持っていた。
それは時には『保吉の手帖から』や『あばばばば』のようなふわふわした形でも描かれ、『歯車』のような得体のしれないものにも転じた。この『疑惑』においては、捉えきれない気味の悪い不思議として書かれている。
そういうものが自分にもあるのだろうかと考えてみる。自分の中に無意識はあるだろう。しかし無意識なので意識できない。ただ自分の自覚を超越した何かがあるとは考えられない。超越しているからだろうか。
私という人間の無意識の中にはなく、私の自覚を超越したものに、私のパソコンやnoteがあった。私はすっかり忘れていてもパソコンの中に昔書いたものが残っている。noteでさえもう自分では「こんなこと書いたかなあ?」という記事があり、他人が書いたもののように読み返すことがある。もしも監視カメラに私の姿が映されて記憶されていたとしたら、そこには私の自覚を超越したものがあるかもしれない。
そういう意味では芥川が空想で書いた『疑惑』の中のエピソード、地震でつぶれた家の下敷きになった女房が生きたまま焼かれるのが見ていられなくて瓦で叩いて殺した男というものが現実にいたかもしれず、その男がたまたま芥川の『疑惑』を読んだとしたら、やはり「それだ。それだ。」という声を聞いたのではなかろうか。
無意識が外側に記録されていたら、それは自覚を超越したものになりうる。例えば、
この時中村玄道が妻に云った言葉をアレクサが聞き取っていて、そのデータをアマゾンのサーバーに転送していたとしたら、誰もが耳をふさぎたくなるようなおぞましい言葉が記録されていたかもしれない。
それが秘密なのではないかと書いたところで、いささか長すぎるので今日はここまで。
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