岩波書店『定本 漱石全集第五巻 坑夫・三四郎』注解に、
……とある。一口に江戸時代の貨幣単位と云っても細かな変遷はあることながら、金貨で言えば「両、分、朱」銀貨で言えば「匁・分、朱」または「貫・匁・分・厘・毛」であり金貨に対する交換制度としての単位は「両・匁・貫」とすべきではあろうが、一般庶民の習慣となるとまた話が少しややこしい。
ここで用いられている「匹」は十文の意味で、千匹は二両二分に換算されると思われる。
年間計十四両の学費は……という話は別の機会に譲るとして、ここでは仮に「両・分・匹」という貨幣単位が用いられていることになるという点だけ確認しておこう。というわけにはいかない。これで話は終わらないのだからややこしい。
ここでさらに「朱」と「歩」が出て來る。金貨で一朱は一両の十六分の一とされており、1両=4分=16朱=4000文で計算すれば二百五十文ということになる。「歩」は「分」と同じ単位と思われるが書き分けられている意味が判然としない。ただしその交換レートは兎も角として、「両・朱・分(歩)・匹」という貨幣単位が一つの文章の中に現れているという事実に注目したい。
これが明治十二年暮れのこととしてみると「以後も一般庶民の一部には両・貫・文の単位を使う習慣が残った」という表現は「政府は新貨条例によって従来の金一両を一円に切り替え、円・銭・厘の貨幣単位に改めたが、民間には旧貨幣単位を使う習慣がしばらく残った」とでも改めるべきではあろうか。
内田魯庵の『貧書生』の時代設定は詳らかにしないが、明治26年に読売新聞社が募集した「歴史小説歴史脚本」が日本最古の懸賞小説といわれているので、おそらく明治二十六年以降ということになるのだろうか。この時点で通貨単位「両」は象徴的な意味ではなく、交換レートの概念の中で用いられている。
天保銭は明治二十五年に通用しなくなる。しかしそれ以降も「両」や「貫」という単位は広く通用するものではなかっただろうか。
[余談]
なんでや。