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岩波書店・漱石全集注釈を校正する11 明治初期は江戸時代

岩波書店『定本 漱石全集第五巻 坑夫・三四郎』注解に、

両 江戸時代の貨幣の単位。明治四(一八七一)年五月に政府は新貨条例によって従来の金一両を一円に切り替え、円・銭・厘の貨幣単位に改めたが、以後も一般庶民の一部には両・貫・文の単位を使う習慣が残った。

(『定本 漱石全集第五巻 坑夫・三四郎』岩波書店 2017年)

 ……とある。一口に江戸時代の貨幣単位と云っても細かな変遷はあることながら、金貨で言えば「両、分、朱」銀貨で言えば「匁・分、朱」または「貫・匁・分・厘・毛」であり金貨に対する交換制度としての単位は「両・匁・貫」とすべきではあろうが、一般庶民の習慣となるとまた話が少しややこしい。

 去年の春、我が慶応義塾を開きしに、有志の輩、四方より集り、数月を出でずして、塾舎百余人の定員すでに満ちて、今年初夏のころよりは、通いに来学せんとする人までも、講堂の狭きゆえをもって断りおれり。よってこのたびはまた、社中申合わせ、汐留奥平侯の屋鋪うちにあきたる長屋を借用し、かりに義塾出張の講堂となし、生徒の人員を限らず、教授の行届くだけ、つとめて初学の人を導かんとするに決せり。日本国中の人、商工農士の差別なく、洋学に志あらん者は来り学ぶべし。
一、入社の式は金三両を払うべし。
一、受教の費は毎月金二分ずつ払うべし。
一、盆と暮と金千ずつ納むべし。
ただし金を納むるに、水引のしを用ゆべからず。

(福沢諭吉『慶応義塾新議』明治二年己巳八月)

 ここで用いられている「匹」は十文の意味で、千匹は二両二分に換算されると思われる。

 年間計十四両の学費は……という話は別の機会に譲るとして、ここでは仮に「両・分・匹」という貨幣単位が用いられていることになるという点だけ確認しておこう。というわけにはいかない。これで話は終わらないのだからややこしい。

一、学費は物価の高下によりて定め難し。されどもまず米の相場を一両に一斗とと見込み、この割合にすれば、たとい塾中におるも外に旅宿するも、一ヶ月金六両にて、月俸、月金、結髪、入湯、筆紙の料、洗濯の賃までも払うて不自由なかるべし。ただし飲酒は一大悪事、士君子たる者の禁ずべきものなれば、その入費を用意せざるはもちろんなれども、魚肉を喰らわざれば、人身滋養の趣旨にもとり、生涯の患いをのこすことあるゆえ、おりおりは魚類獣肉を用いたきものなり。一ヶ月六両にては、とても肉食の沙汰に及び難し。一年百両ならば十分なるべし。
一、入社の後、学業上達して教授の員に加わるときは、その職分の高下に応じ、塾中の積金をもって多少に衣食の料を給すべし。生徒より受教の費を出さしむるは、これらのためなり。
一、洋書の価は近来まことに下直げじきなり。かつ初学には書類の入用も少なく、大略左の如し。
理学初歩    価一分一
義塾読本文典  価一分
和英辞書    価三両二
地理書    ┌一部に付
窮理書    ┤弐両より
歴史     └四両まで

(福沢諭吉『慶応義塾新議』明治二年己巳八月)

 ここでさらに「朱」と「歩」が出て來る。金貨で一朱は一両の十六分の一とされており、1両=4分=16朱=4000文で計算すれば二百五十文ということになる。「歩」は「分」と同じ単位と思われるが書き分けられている意味が判然としない。ただしその交換レートは兎も角として、「両・朱・分(歩)・匹」という貨幣単位が一つの文章の中に現れているという事実に注目したい。

 とかくしている中、また一つ私の生活に変化が来ました。
 それは牛込神楽坂の手前に軽子坂という坂があるが、その坂上に鋳物師で大島高次郎という人があって、明治十四年の博覧会に出品する作品に着手していた。これは銀座の三成社(鋳物会社)が金主となって大島氏に依嘱したものであるが、その大島氏と息子に勝次郎(後に如雲と号す)という人があって、まだ二十歳前の青年であるけれども、なかなか腕の勝れた人で、この人が主となってその製作をやっておった。ところが、大作のこととて、なかなか大島氏父子の手だけでは十四年出品の間に合いそうもない所から、十二年の暮頃から、しきりと製作を急いで来たがどうも手助てつだいを頼む人物がなかなか見当らない。そこで、父の高次郎氏が、どういう考えであったか、その助手を私に頼むことに決めたと見え、或る日、突然、私の宅へその人が訪ねて来たのである。(中略)
「さて、あなたも、いよいよ家へ来て下さることになったから給料を決めよう。一体、幾金上げてよいか。お望みのところをいって下さい」という。私はこれまで師匠の宅へ通っている間、日給二十匁ずつを貰っていたから、これまで通り、二十匁(この二十匁は三日で六十匁一両に当る)でよろしいのだが、まず一分二朱も頂けば結構というと、
「今時いまどきの時節にそんな馬鹿なことがあるものか、一分や二分ではどうなることも出来やしない。私は一両二分差し上げる。また急なものだから時々夜業をお頼みすることがあるから、それは半人手間ということにして頂こう」
と大島老人はいう。

(高村光雲『幕末維新懐古談 鋳物の仕事をしたはなし』)

 これが明治十二年暮れのこととしてみると「以後も一般庶民の一部には両・貫・文の単位を使う習慣が残った」という表現は「政府は新貨条例によって従来の金一両を一円に切り替え、円・銭・厘の貨幣単位に改めたが、民間には旧貨幣単位を使う習慣がしばらく残った」とでも改めるべきではあろうか。

 殊に縁日商人位泡沫銭の儲かる者は無い。僅か二両か三両の資本で十両位浮く事がある。尤も雨降のアブレもある。品物のロウズも出るから儲かるほどに金は残らんが子、なにしろ独立の商人でお客様の外は頭を下げずに太平楽を云つて、定きまつた給金と違つて不意の所得まうけの入る処が面白い。君だから内幕を話すが二銭に三箇みつゝの石鹸ナ。あれは一百一貫の品だ。一と晩に一百売ると五貫余儲かる、夏向になると二百や三百は瞬く間に売れる。一番高い六銭の石鹸ナ、あれは一グロス二両と四貫だ。あの品が躰裁が妙に出来てるんで素人が惚込んで三ダースや四ダースは直ぐ売れる。それから歯磨ナ、あれは子コになつてる歯磨を升ますで買つて来て竜脳を些とばかり交ぜて箱詰にして一と晩置くとプンと好い香がする、そいつをオンタケ散とか豚印とか好い加減な名を付けた袋へ入れて一と袋一銭五厘に売るんだ。奈何だい、商人の楽屋は驚いたもんだらう。尤も僕の商売は夏向で冬は閑な方だが、こゝ君達に一つ秘策を授けやうかナ。懸賞小説を書いたり政治家の尻馬に乗るより余程気楽に儲けることが出来る。斯ういふ商売だ。牛込や神田には向かんが本所、下谷、小石川の場末、千住、板橋辺あたりで滅法売れる、胼ひゞあかぎれ霜傷の妙薬鶴の脂、膃肭臍の脂、此奴が馬鹿に儲かるんだ。なアに鶴や膃肭臍が滅多に取れるものか。豚の脂や仙台鮪の脂肪肉で好いのだ。脂でさへあれば胼あかぎれには確に効く。此奴を一貝一銭に売るんだが二貫か三貫か資本で一晩二両三両の商売になる。詐偽も糞もあるもんか。

(内田魯庵『貧書生』)

 内田魯庵の『貧書生』の時代設定は詳らかにしないが、明治26年に読売新聞社が募集した「歴史小説歴史脚本」が日本最古の懸賞小説といわれているので、おそらく明治二十六年以降ということになるのだろうか。この時点で通貨単位「両」は象徴的な意味ではなく、交換レートの概念の中で用いられている。

 天保銭は明治二十五年に通用しなくなる。しかしそれ以降も「両」や「貫」という単位は広く通用するものではなかっただろうか。


[余談]

 

  なんでや。





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