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谷崎潤一郎の『呪はれた戲曲』を読む 紅華って筆名を選ぶ奴がいたらそっちかと思うよ

 黒岩涙香か、っちゅうくらいのおどろおどろしい前置きで始まるこの小説は、そうか、探偵小説の走りとして取り扱われてきたものか、江戸川乱歩を読むように楽しめばいいのかと、妙な先入観をわざと与えようとしているように思える。大体タイトルが『呪はれた戲曲』という如何にもという感じで、太宰治なら『血染めの月光』ですかと揶揄いたくなるだろう。

 実際前半はなんとも読みづらい。読みづらいというか、読んでいてつらい。もっと面白い作品があるだろうに、何でこんなものを無理して読まなきゃならないのかとついつい考えてしまうほど、人物の書き分けや心理描写、感情の表現などが平べったく単調である。悪い意味でどこか芝居じみていて、解りやすく誇張され、単純化されている。こんなものが日本文学なのか、今なら新人賞の一次選考も通らないぞと思いながら読み進めることになる。

 筋としてはこの程度のものである。

 作家「私」が作家・佐々木紅華が花が妻・玉子を赤城山で突き落として殺す顛末を「善と悪」という一幕芝居の草稿によって明らかにする、というものだ。なんだかややこしいな。

 前半はとにかくつまらない。いわゆる仕込みの要素が強いからだ。話が俄然面白くなるのは、「善と悪」という一幕芝居に登場する青年文学者・井上とその妻・春子が佐々木紅華とその妻・玉子との関係を「劇中劇中劇」として演じる辺りからだ。

(春子)いやよ、あなた、私は其の中の春子ぢやなくつてよ。

(井上)でもをかしいぜ、此の中の春子もやつぱりお前と同じやうな事を云つてるぜ。

(春子)どんな事を云つてるの?

(井上)「もう日が暮れるから早く歸りませう。」とか、「私はあなたより足が丈夫だから、ちつともくたびれない。」とか、お前も先そんな事を云つたぢやないか。

(春子)ほんたうにさう書いてあるの? 

(井上)ほんたうさ、ほれ、此處を御覽(原稿を示す。)そら、ちやんと書いてあるだらう。

(春子)まあ!ほんたうだわね。かう云ふ所はきつと私をモデルにしてお書きになつたのね。(谷崎潤一郎『呪はれた戯曲』)

 そういえば『羹』も「春子」と別れる・別れないの話だった。井上は春子に別に好きな相手がいるからお前は死んでくれと頼み、いよいよになると突き落とす。突き落とすのだが、そういう芝居を佐々木紅華は書いていて、これを読んだ春子はどう思うだろうかと井上に書かせている。其の入れ子の構造は、その外側にいる作家「私」と作家・谷崎潤一郎との間であたかも「劇中劇中劇中劇」が演じられているかのように思わせかねない。

 つまり例えば谷崎潤一郎自身が妻に飽いて浮気をしているというような、極めてドメスティックなひっそりとした変化によって変わってしまった状況があり、それを小説にこそ書きながら、本質的なレベルでは何も変化はしないで、夫婦関係のストーリーがそこでカット・オフされて終わっているのではないかと疑わせるようなところがないではない。

 この作品が書かれた大正八年、谷崎潤一郎自身には妻がいる。村上春樹さんの『一人称単数』に収められた。『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』や『謝肉祭(Carnival)』などを読むと他人事ながらひやひやしてしまうのだが、そこには「今の女房は自分にとって100パーセントの女の子じゃない。大昔、一度だけすれ違ったザ・ビートルズの『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』の英国版のジャケットを持った女の子が忘れられない」とか「昔の美少女はお婆さんになってしまった」とか「女房は中華料理を食べるという口実で時々家を空ける」とか、そんなドメステイックでカツト・オフされた剣呑なストーリーがあるように思えてならないからだ。つまり谷崎はこれを妻・千代が読んだらどう思うかと考えながら書いていると匂わせているようなところがありはすまいかと疑わせる疑わせる仕掛けが確かにあるのだ。こういうパターンの小説は何度も繰り返し現れているが、入れ子の構造を三重にしたことで、かえってその外側を意識させるという仕掛けにおいては本作がより徹底されている。


 自分は生來恐るべき惡人でありながら、いつも善人の仲中途半羽な不徹底な生活を續けて居るが爲め、却つて一層間入りをしたい虛榮心に囚はれて、寧ろ此れからはガラにもない虛榮心を放棄して、自己の本性に復歸し、彼の意志を其の恐るべき決心にまで押し轉がして行つのだ。-此考が有力な槓杆となつていた。(谷崎潤一郎『呪はれた戲曲』)

 そうして書かれた戯曲の題名が「善と悪」というあたりがどうも凝っている。どこにも善らしきものが見当たらないからだ。それでもあえてどこかに善はないかと探してみれば、それはこの「善と悪」とが「劇中劇中劇」に留まり、ガラにもない虛榮心に囚われて谷崎潤一郎が女房を殺さなかったという現実にあるとでも言うしかない。つまりその善は虚栄心がもたらした偽善でしかないという注釈がついている。

 佐々木紅華という妙に派手な雅号も、『呪はれた戲曲』というおどろおどろしい題名も、前半の平面的な心理描写も、『呪はれた戲曲』がお芝居に留まることを示唆する以外には、さして積極的な解釈を持たないように私には思える。

 違うなという人、手を挙げて。


 はい、下ろして。



篋底 きょうてい はこのそこ

槓杆 こうかん てこ 両方の字がてこ 梃子 これをてこと読ませる人はちょっとあれな人。

毫氂 ごうり これもほぼ漢文の世界。

テムペラント 精神的素質。気質。

夜ツぴて 「よっぴとい」の音変化。一晩中のこと。

せがみ着く うるさくねだってまつわり付く。せがむ しきりに頼み込む。盛んにねだる。

















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