芥川龍之介の『邪宗門』をどう読むか② 縦に読もう
え、死んじゃうの?
え? まだ一章なのに「無残な御最期」って死んだ? 殺すの早すぎない? これで話が持つの?
そう思うのは読者ばかりではなかろう。どうも私には芥川が『偸盗』に続いて何か大きなものにぶつかろうとして、それが単に長さ、原稿の量などではなく、「型破り」の方法に向かっているように思えて仕方ない。
この『邪宗門』は古典的な「はじまり、真ん中、終わり」という軸を持った物語ではない。かといって「さび頭」でもない。ただ第一章で「終わり」が示されているだけだ。
つまり時間軸で考えると二章以降は回想の物語においてさらに時間を遡ることになる。通常考えられる作法としては、ただ「そういうもの」として描かれた堀川の若殿様の最後に対して、何か次第次第に明らかになることがあり、誰が彼を殺したのか、何故彼が殺されなければならなかったのか、どのようにして彼はころされたのかという、犯人、動機、方法(手段)について、読者が納得しなければならないことになる。
これが推理小説なのであれば。
今更人物紹介(・・?
しかし芥川は既に「不思議」と書いてしまっていて「お化け」を出してしまっているので、そうした推理小説的な楽しみ方は期待できない。案の定芥川はすっとぼけて、第二章を人物紹介(Introducing a Character)で始めようとさえする。
※「うらうえ」……あべこべ。
俗に「芥川には長編小説の構成力がなかった」などと言われるが、芥川の短篇小説の構成力たるや凄まじく、さまざまな物語の型というものを読む中で、あれとこれとを語る順序、段取りを決めてお話を作る名人であると私は思っている。
例えば『鼻』も元ネタの落ちの部分は一旦さらりと流して、全く違った話を拵えている。『羅生門』も『地獄変』も元ネタそのものは実に簡単なもので、話そのものは独自に練り上げたといって良い。
あえて言えば『杜子春』と、
それから『蜘蛛の糸』が、比較的換骨奪胎という感じがしないだけで、後は相当話を作り変えている。
その芥川が『邪宗門』においては冒頭穏やかなアイドリングのように人物紹介をすることを嫌ったのだ。これは十分物語構造と云うものを意識した結果であろう。
パクるものはパクる
しかし芥川はパクるものは見事にパクる。なかなか小器用だなと思われるこの下りと和歌。
これはそのまま『古今著聞集』から採られている。
物語など所詮はサンプリングとリミックスの妙だと言わんばかりに大胆に、ここはかなりごっそりと元ネタが使われている。少々わかりにくいが、このネタは「或るところに法事ありけるに」で始まっていて、この歌は詠み人知らずである。
またこの「磬(うちならし)」は「相対孔雀文磬」と呼ばれているもののようで、
竜蓋寺にもあったかどうかは判然としない。「開山義淵法師の像」と「浮彫天人の磚(かわらけ)」というものがあつたらしいが、「相対孔雀文磬」に関しては解らない。
この辺りの細工はまさに虚々実々のあわいを愉しむ感覚であろうか。アイドリング無しですっかり肩慣らしは出来ている。
(続く)
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