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「お話」とは何か   軸があるかないかだよ からあげくんが妖精だったなんて!



 前回、私は谷崎の『泰淮の夜』について「お話」になっていると書いた。『蘇州紀行』は紀行文だが、『泰淮の夜』は「お話」だと。

 実はこのあたりのシンプルな筈の事が案外伝わっていないのではないかと思い、少し補足説明しておきたい。紀行文はどこそこを観光した、何々を食べたの羅列でよい。筋ができてしまうとお話になる。『泰淮の夜』は支那料理を二ドルでたらふく食べ、三ドルで芸者が歌を歌うと聞かされる。では女はいくらかと娼家を訪ねると別嬪さんが四十ドルで高すぎるとあきらめる。次の店では気に入った子がいない。三番目の店で別嬪さんが三ドルで買えた。お金が筋を作っている。

 この「お話」の構造について、もっともシンプルな説明をしているものに、デイヴィッド・ロッジの『小説の技巧』(柴田元幸、斎藤兆史訳・白水社、1997年)がある。要するにアリストテレス的な「はじまり、真ん中、終わり」を貫く軸が筋であり、筋でつながるのが物語だ。しかし現代ではプロットを「完了に至る、変化の過程」とする考えもあり、デイヴィッド・ロッジの云うところの物語構造はもっと曖昧な「思わせぶりな一断片」というところにまで敷衍されてしまう。つまりもはや構造すら持たないのが物語構造なのだ。

 そこまで理解したうえで矢張り、私が言う「お話」とは「筋でつながる物語」であり、『泰淮の夜』はお話だとしておこう。これまで谷崎は、あえて主題から乖離する小説も書いてきた。例えば『少年』では明らかに前半の主題であった「内弁慶の信一のサディズム」がいつの間にかどこかに消えて、光子のサディズムが不意に浮き上がってくるという形で「お話」を壊している。「内弁慶の信一のサディズム」には落ちが付いていないので、「終わり」が感じられない。妙にねじれた話である。

 また実際舞台に掛けられたという『信西』も「はじまり、真ん中、終わり」という形にはなっていない。(盛隆を極めた)信西が逃げ延びて囚われる。…これは確かに信西の人生の終局ではあるが、(盛隆を極めた)という前提が書かれていないのでお話という感じがない。

 そのほか『羹』『あくび』『熱風に吹かれて』なども「はじまり、真ん中、終わり」という形ではなく、起承転結でもなく、アンチストーリー、アンチクライマックスの形式をとる作品だ。だから必ずしも全ての小説で「お話」を意識しなくてもいいのだが、「お話」がある場合は「お話」を意識することは当然必要なことだと私は考えている。そしてこの「お話」が捉えられていないことから、いい加減な文章読解がまき散らされていることをだらしないなあと感じている。

 例えば夏目漱石の『こころ』はまずお金の話だとして読まなくては何の話なのか分からない筈だが、現代文Bの世界では「愛と友情の話」に限定されてしまい「金さ、君」というふりが見えなくなってしまっているし、先生が「私」の就職をどうでもいいこととして片付けることの意味が解らなくなっている。また「私」を「知り合ったばかりの大学生」にしてしまうと、先生の遺書を託される意味も曖昧になる。「私」の立ち位置が掴めないと、『こころ』の「お話」は見えてこない。

 夏目漱石の『坊つちゃん』は給料が四十円から二十五円になる話である。さして無鉄砲ではないし、損ばかりしている様子のない親の子が碌なものにはならない話である。清が「おれ」の家の墓に入る作品である。従って、実母が案外お婆さんという漱石自身の体験が何処かなぞられているようでもあり、清の純粋な母性に「おれ」が小さく報いる話でもある。だから清実母説そのものは「断固として拒否」するようなものではなく、「絶対間違いない」というものでもなかろう。

 つまり仄めかしが仄めかしに留まることもある。「思わせぶりな一断片」でさえ物語構造なのだ。

 このような小説のスタイルについて村上春樹とレイモンド・カーヴァーの間で交わされた会話は有名だろう。

「これは僕の個人的な意見ですが、あなたのストーリーと日本の伝統的な短編小説のあいだにはある種の共通項があるんじゃないでしょうか?」   「ふうむ。たとえばどんな?」                   「たとえばですね、あるひとつの状況があって──これはどちらかといえば個人的なドメスティックな状況なわけですが、そこに変化が起こる。ひっそりとした目立たない変化です」                   「うん、そう。ひっそりとした変化だ」               「そして状況も変わる。しかし本質的なレベルでは何も変化はしない。そしてストーリーはそこでカット・オフされて終わる」          「そう、カット・オフだ。イエス。何も変わらない。ザッツ・ライト」(「レイモンド・カーヴァーと新しい保守回帰の波」『夜になると鮭は…』所収/レイモンド・カーヴァー/村上春樹訳/中央公論社/昭和六十三年)

 日本の伝統的な短編小説がドメスティックな変化とカット・オフで括れるかという問題はさておき、一つのスタイルとして解りやすいお話ではないもの、思わせぶりな断片を村上春樹自身が書いてきたことはまた明らかだろう。それは例えば『三つのドイツ幻想』であり『1Q84』であり、『ドライブ・マイ・カー』であった。二つの月に厳密な意味を求めるべきではないし、リトル・ピープルの「正体」を問い詰めることにも意味はない。『ドライブ・マイ・カー』の筋を語ることは難しい。変化はひっそりとしていて、大きな山場と呼べるものもない。大きな事件もない。むしろそうした「お話」を避けるように書かれているからだ。

 夏目漱石作品にしても『夢十夜』や『永日小品』は「お話」の形を取らず、思わせぶりな断片に留まる。「お話」であることは自体は小説にとってさして重要なことではない。ただ小説の物語構造を意識して読むことは文章読解に於いて必須であろう。そんな当たり前のことを今更真面目腐って書いていること自体が、いささか真面ではないように思えるが、こんなことを繰り返し書かねばならないほど、でたらめなものがまかり通っているのも事実である。

【補足説明の補足説明】

 ええと、ここも解り難いので補足説明の補足説明。「二つの月に厳密な意味を求めるべきではないし、リトル・ピープルの「正体」を問い詰めることにも意味はない。」というのは村上春樹さんは伏線の回収をしないスタイルなのであまり深く考えない方がいいという話ではなくて、あくまでも物語構造として考えた場合、『1Q84』という小説は「二つの月が現れた、これがどうなるのだろう?」「リトル・ピープルやさきがけはどうなるのだろう?」「ふかえりは?」という読みの軸を持たないという意味です。それを出鱈目と云ってしまうと『さようなら、ギャングたち』や『アメリカの鱒釣り』なんかも出鱈目ということになってしまう訳です。『1Q84』の「お話」の部分は「ゴーストライターと連続殺人鬼のバカップルが出来上がる」ことであり、「天吾の王国が出来上がること」や「さきがけが解散すること」ではないのです。まあ、赤プリぽいホテルでワイン飲んじゃっていますから、救済なんてありゃしません。 文句がある人は ↓ これを、どうぞ。



 からあげクンは、実はにわとりではなく妖精だった! わしゃ今まで妖精の肉食ってたんか?
















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