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芥川龍之介の『杜子春』をどう読むか③  それは決定事項ではない

 これまで二回、『杜子春』について書いてみた。メジャーな作品ほど読んでいる人が多いので、私が本当のことを書くことで、今までいい加減なことを書き散らしていたその人を傷つけてしまうかもしれないと知りながら、どうしても書かないわけにはいかなかった。

 実は『杜子春』『蜘蛛の糸』と立て続けによく知られている作品に関して述べるのはたまたまではない。もちろん芥川龍之介が童話に立て続けに「地獄」を持ち出したこともたまたまではなかろう。そしてその童話がさして道徳的ではなく、きれいごとでもなく、いつもの通り逆説の物語であることもたまたまではなかろう。
 芥川龍之介は地獄の好きな作家である。いや、好きではなかろうが『孤独地獄』から『侏儒の言葉』、『歯車』まで、地獄の概念に取りつかれた作家である。 

 地獄には誰でも知っている通り、剣の山や血の池の外にも、焦熱地獄という焔の谷や極寒地獄という氷の海が、真暗な空の下に並んでいます。鬼どもはそういう地獄の中へ、代る代る杜子春を抛りこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥れるやら、鉄の杵に撞つかれるやら、油の鍋に煮られるやら、毒蛇に脳味噌を吸われるやら、熊鷹に眼を食われるやら、――その苦しみを数え立てていては、到底際限がない位、あらゆる責苦に遇されたのです。それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言も口を利きませんでした。

(芥川龍之介『杜子春』)

 このような「いわゆる地獄」というものを芥川がさして真面目に捉えていないことは言うまでもなかろう。そうでなければ、つまりこの「いわゆる地獄」がリアルなものであれば、舌を抜かれて脳みそを吸われた杜子春が何かを白状することも、「お母さん」と叫ぶことも不可能だからである。この矛盾は意図して拵えられたもので、だからこそお伽噺なのだろう。

 ただ『孤独地獄』から『侏儒の言葉』、『歯車』までの地獄を眺めた時、リアルな地獄というもの見ていたこともまた確かだ。

 しかも自分の中にある或心もちは、動ややもすれば孤独地獄と云ふ語を介して、自分の同情を彼等の生活に注そそがうとする。が、自分はそれを否いなまうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦、孤独地獄に苦しめられてゐる一人だからである。

(芥川龍之介『孤独地獄』)

 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであろう。況や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉の苦しみを感じないようになってしまう筈である。

(芥川龍之介『侏儒の言葉』)

僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた一人に違ひなかつた。が、それだけに悪徳の話は愈僕を憂欝にした。僕は一時的清教徒になり、それ等の女を嘲り出した。

(芥川龍之介『歯車』)

 一定の法則を持つていない現実の地獄、それが「いわゆる地獄」よりも恐ろしいことを芥川龍之介は一貫して書いて来た。
 一貫して?
 私は『杜子春』にもそういう地獄が書かれていると考えている。

 そもそも杜子春はどういう男だったか?

「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」

(芥川龍之介『杜子春』)

 金遣いが荒く、無計画、他力本願で、自分のことは棚に上げて勝手に他人だけを批判し人間不信に陥っている。自分を省みるつもりはさらさらない。そもそも人が離れて行ったのは杜子春に金以外の魅力がなかったからではないのか。そもそも働く気がない。

「――こんな思いをして生きている位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」

(芥川龍之介『杜子春』)

 最初から悲観的である。人生の目的も見えない。何かに努力している気配もない。
 さて、こんな男が家と畑を貰ったところで、果たして「人間らしい、正直な暮しをする」ことができるだろうか。
 畑仕事の経験もないのに?

「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
 杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩っていました。
「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇わないから」
 鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
「おお、幸い、今思い出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。

(芥川龍之介『杜子春』)

 この結びをハッピーエンドと読む人は少なくないようだ。しかし杜子春の声の晴れ晴れしい調子は鉄冠子のプレゼントの前にある。つまり「人間らしい、正直な暮し」はプレゼントの前提のない時点のものなのである。

 では「人間らしい、正直な暮し」とはなんであったか。
 作中人間はみな薄情なものとされ、その定義は覆っていない。敢えて言えば「お母さん」と叫ぶことは人情だが、他人に対する愛情が芽生えた気配はない。つまり「人間らしい、正直な暮し」とは、仮に家と畑を得てさえ、一定の法則を持っていない現実の地獄なのではなかろうか。

 杜子春の未来に晴耕雨読のような清貧が見えない。芥川はプレゼントを与えられた後の杜子春の表情も答えも書かない。そこは飽くまでも読者に委ねられている。子供に、これから杜子春が立ち向かう現実とは何なのかと考えさせようとしている。

 これまで働いたこともないものに何ができるのかと考えさせようとしている。杜子春の声の晴れ晴れしい調子の意味を考えさせようとしている。

 元ネタでは「恩ある者には之に煦(むく)い、讐(あだ)ある者には之に復す」という方向性だ。

 人間は皆薄情だという芥川の杜子春に恩人はいまい。だからといって薄情者たちに復讐したとは芥川は書かない。ただ泰山の南の麓の一軒家でのひっそりとした暮らしが決定事項ではないことを仄めかすのみだ。現実の地獄は一定の法則を持っていない。芥川はこの無法則の世界のぼんやりとした不安を子供たちに教えようとしているのだ。まるでとても親切な仙人でもあるかのように。






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