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モクカカウセツチユウ 昼の月書くらむ人の目指しやな 芥川龍之介の俳句をどう読むか78

  人生はあきれるほど自由だ。「私」は先生に「なんとなく」惹かれるのだと信じたまま死ぬことも自由だし、

 Kは苗字だと信じたまま死ぬことも自由だ。

 なんなら、「グラスホッパー」を「グラス・ホッパー」と書いてもいい。

 すべてを無の感情でやり過ごしてもいいのだ。

 どうせ文芸評論の記録など二十年も残らない。何百年も恥をさらすことはない。

昼の月霍乱人が眼ざしやな


古事類苑 方技部7

 この句にもこれという鑑賞が見つかりません。ただこんな句がありますねと紹介だけしていて、何が書かれているかという自分の理解したところを示しません。「昼の月」が季語で季節は空が澄み昼間でも雲が見える秋、句の趣旨としては立川出身の放浪の俳狂、尾崎放哉の、

うそをついたやうな昼の月がある

 に、近いものがある……。と誰か一人くらい書いていてもよさそうなものですが、いませんね。

佐藤春夫詩集 佐藤春夫 著第一書房 1926年

 多分「眼ざしやな」を持て余しているんでしょう。「やな」が大阪弁? と思った人はいますか? ちょっと手を挙げてもらっていいですか?

 いませんか? 

 芥川の俳句の中で「やな」で終わっているのはこの句だけです。「やな」ってどういう意味ですか?

や‐な
〔助詞〕
(間投助詞のヤとナとを重ねた語)…だなあ。よな。やの。源氏物語浮舟「よからずの右近がさま―」。日葡辞書「ウレシヤナ」

広辞苑

 一応詠嘆だと考えていいんでしょうね。では「目刺し」とは?

め‐ざし【目刺し】
①子供の額髪の末が額に垂れ下がり目を刺すほどの長さのもの。また、その年頃の幼童の称。古今和歌集東歌「磯菜摘む―濡らすな沖に折れ波」
②鰯いわし・鯷ひしこなどに塩をふり、数尾ずつ竹や藁わらで目の所を刺し連ねて乾した食品。〈[季]春〉

広辞苑

 出てきましたよ。春の季語。

 しかしそもそもこの句は、

昼の月霍乱人が眼ざしやな

昼の月霍乱人が目ざしやな

 と二様に詠まれていて、「眼ざし」「目ざし」も食べ物のメザシという意味だけではなく、「まなざし」「めつき」という意味にも取れますよね。さあ困った。これではおちおち解説なんかできないはずです。「メザシ」と「めつき」だと全然意味が変わってきますから。

 ただそれにしてもこの句は、

「昼の月」は「霍乱人が目ざし」であることよなあ、と詠んでいるわけなので、「月」が「めざし」でなくてはならないことになりますね。そうすると、

 霍乱人のメザシのような昼間の月が浮かんでいることだなあ

 こんな解釈はどうなんでしょうね。それよりはむしろこちらが見上げておきながら見られているかのように、

 昼間の月の投げかける光は、霍乱人のまなざしのようであることよ

 と解釈したほうがすっきりしませんか。とにかく「霍乱人のメザシ」ととらえてしまうと、ただ珍妙な句ということになりかねませんが、

 霍乱人の目指しているは、昼間の月のように仄かで厳かであることよ

 という解釈もあり得るかもしれません。ただおそらく芥川の語彙で「目ざし」=「めざすこと」という使われ方はないと思います。

しかし近松の目ざしたのは、「苦しまざる俊寛」にの

(芥川龍之介『澄江堂雑記』)

するとどう云ふ芸術家も完成を目ざして進まなければならぬ。

(芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』)

陽炎に狂ふ牡猫の眼ざし哉

 これは食べるメザシですね。

木がらしや目刺にのこる海のいろ

木枯らしや目刺しに残る海の色

 これも食べるメザシですね。ではやはり、

霍乱人のメザシのような昼間の月が浮かんでいることだなあ

 というのが正解なんでしょうか?

 私にはどうも「霍乱人のメザシ」がふざけすぎのように思えます。だからこそ霍乱人なのでしょうが。

「山里は万歳遅し梅の花。翁去来へ此句を贈られし返辞に、この句二義に解すべく候。山里は風寒く梅の盛りに万歳来らん。どちらも遅しとや承らん。又山里の梅さへ過ぐるに万歳殿の来ぬ事よと京なつかしき詠めや侍らん。翁此返辞に其事とはなくて、去年の水無月五条あたりを通り候に、あやしの軒に看板を懸けて、はくらんの妙薬ありと記す。伴ふどち可笑しがりて、くわくらん(霍乱)の薬なるべしと嘲笑ひ候まま、それがし答へ候ははくらん(博覧)病が買ひ候はんと申しき。」

(芥川龍之介『芭蕉雑記』)

 霍乱の妙薬を呑んでいた芥川には昼の月があるいは目刺しのように見えたのかもしれない。「發句は行きて歸る心の味なり」というところに沿えば、これは確かに、

昼の月博覧人の目指しやな

 という洒落の可能性を秘めつつも、

昼の月霍乱人の眼ざしやな

 ここに留まると解釈すべきかもしれない。

或の日、芥川龍之介君が來て、いつものやうにただ遊びに來たのではなく、なにか用談がありさうな樣子だから書齋に通つてもらふと、實は懇意にしてゐる骨董屋が能面を三十面ほど持つてゐて見てくれないかといはれるけれども

能面論考 野上豊一郎 著小山書店 1944年

 趣味が広いな。

都會人芥川龍之介の華やかな出現、田舎者菊池寛の目醒ましい進出は、この一篇を讀んでも推察されるが、芥川は華やかであつても都會人らしい脆さがあつた。

予が一日一題 正宗白鳥 著人文書院 1938年


現代日本画壇人物論


聞いて吃くり世間の裏面

 久米と桐谷天香が見合いをしていただと。

又坪内逍遙氏や芥川龍之介等も、トテモといふ言葉遣が、近年東京界隈に行はれてゐるが、其の來歷はかくかくで、元祿頃にも行はれてゐたと俳諧を例に引いて說いてゐた。

国語問題正義

 物知りだね。博覧だ。

 氏が大每かの命によつて、支那に遊んだ。むろんその紀行文を新聞に送らねばならぬ。行く人は芥川氏であるし、行かせる人は大每であるから、豊富な金を持つて行つたことも事實である。氏はとにかく支那に着いた。
 大每の方では、今日か明日かと氏の原稿を待つてゐる。しかし原稿は來ない。かへつて、「カネオクレ」といふ電報が來た。致し方なく送金する。しかし原稿は來ない。再び「カネオクレ」の電命だ。何でもかうして四五度にわたる送金をしたが、原稿は依然來ない。
 請求する人は、文名高い芥川氏だ。うつかり拒んで、元も子もなくしてはといふ懸念もあつたらうし、大每の雅量といふものも手傳つたのであらう。とにかく、かうして言はるゝまゝに、送金をつゞけた。しかし、幾日立つても一片の原稿も來ない。
 
人づてに聞くと、氏は、到る處で支那の古書を買ひ込んだり、珍しい什器をあさつたりしては、存分にその骨董慾を滿足させてゐるといふ噂である。そんなところへ、またしても「カネオクレ」が舞ひ込む。

 流石の大每も、とうとうもて餘した。で、今回限り斷然送金をしないといつて威嚇すると共に、はじめて「ゲンカウオクレ」とかねての使命を果すやうに催促した。ところが、氏から早速返電があつた。
モクカカウセツチユウ」しかし、この十字の片假名を漢字に入れかへて見ても、そのわいせつはわかつても、何人にも眞意は讀めなかつた。それは誰だか忘れたが、唯一人この謎の十字を讀んだ。
 
 意譯すると、つまり「目下は支那の渦中にあつて、一切が實行感に滿されてゐる。とても支那を客觀視することは出來ない。第三者となつて、眞の支那、本當の支那を把握することは出來ない。」といふことだらうとなつて、凡人共は、成程一代の芥川であると驚嘆したといふことだ。

綴方科教育問答

 目下交接中って、おい。

芥川龍之介氏の氣分は靜かで朗かだ。すつきりしてゐる。『枯野抄』(『新小說』所載)はしいんと氣持を落ちつかせた。

遠望 前田晁 著摩雲巓書房 1923

たしか芥川龍之介だつたと思ふ。胃袋がなかつたらどんなに幸福だかと嘆いたといふが、これは同感である。芥川氏のあのいたいたしい自殺の眞因は存外その胃袋にあつたのぢやないか。


工房雑記 : 美術随筆恩地孝四郎 著興風館 1942年

天国の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持っていない筈である。

 これは『侏儒の言葉』。

これが芥川龍之介は谷崎に言はせると小うるさいばかりに神經質に句讀點を用ゐてゐた。その可否は別として日本語を理智的に使ふためには當然の方法であつたらう。


むささびの冊子 : 佐藤春夫随筆集 佐藤春夫 著人文書院 1937年

 確かに。

藤村を見て常に思ひ出すのは芥川龍之介である。彼は藤村のやうに長篇を書かないで、氣の小さい短篇しか書かなかつたからばかりではない。


預言と回想 蓮田善明 著子文書房 1941年

昔、私は、芥川龍之介氏の「河童」を讀んで殺氣とでもふものを痛烈に感じたので「芥川氏は自殺しやしないが」と語つたところ、久米氏は「芥川君は近來は以前よりずつといゝ」と答へられたが、それから幾日もたゝないで私の不吉な予感は事実となって現れた。

裁判の書 三宅正太郎 著牧野書店 1942年

芥川龍之介氏の作品の中に夏目漱石氏の葬儀に會葬した鷗外博士を見て、一瞬時その風采の特異の氣品に打たれたことを書いたものがあつた。たしか神采奕奕と云ふやうな文字が其處に使つてあつた。


学窓雑記 小泉信三 著岩波書店 1936年

彼はその日敗北者芥川龍之介の弱い、彼のやうに弱い小說『彼』を見つけてからもう本を投けた。

「女重役」と女共産党員発表号

野村隈畔、有島武郞、芥川龍之介、斯うした人々の自殺の背後の世界觀が何んであつたかを思ふなら、其時私の懷いた厭世感が、單なる一靑年のセンチメンタリズムのみでなかつたことが知られよう。

歩道に立つ 小野村林蔵 著長崎書店 1936年

自殺者の方法にも一種の流行があると見えて、龍野六人殺しの慘劇があつた當時とか、文士芥川龍之介氏の死が新聞に發表された前後などカルモチン自殺が眼に見えて殖え、猫いらず自殺がぐんぐん頭を擡げるといつた有樣で、本縣警察部で自殺の統計をとつてゐる係官など何か大きな自殺の新聞記事が出ると「こんどはこの欄を廣く空けて置かなければ」と、ちやんと心得たものたといふ、

兵庫県神戸市方面委員会須磨区分会一週年史

雜誌部の委員として、私の一年上に後藤末雄氏がゐて、二年下に芥川龍之介氏がゐた。

第二学生生活 河合栄治郎 著社会思想研究会出版部 1948年

芥川龍之介が死ぬ、きつと餘波が起るよというてると、果してその言の如しである。だから、社會の出來事に對する處理方、ことには新聞などの記事の取扱方如何により、さゞなみにもなれば千頃の怒濤にもなる。

落穂集 : 六番茶
下村海南 著博文館 1929

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