人生はあきれるほど自由だ。「私」は先生に「なんとなく」惹かれるのだと信じたまま死ぬことも自由だし、
Kは苗字だと信じたまま死ぬことも自由だ。
なんなら、「グラスホッパー」を「グラス・ホッパー」と書いてもいい。
すべてを無の感情でやり過ごしてもいいのだ。
どうせ文芸評論の記録など二十年も残らない。何百年も恥をさらすことはない。
昼の月霍乱人が眼ざしやな
この句にもこれという鑑賞が見つかりません。ただこんな句がありますねと紹介だけしていて、何が書かれているかという自分の理解したところを示しません。「昼の月」が季語で季節は空が澄み昼間でも雲が見える秋、句の趣旨としては立川出身の放浪の俳狂、尾崎放哉の、
うそをついたやうな昼の月がある
に、近いものがある……。と誰か一人くらい書いていてもよさそうなものですが、いませんね。
多分「眼ざしやな」を持て余しているんでしょう。「やな」が大阪弁? と思った人はいますか? ちょっと手を挙げてもらっていいですか?
いませんか?
芥川の俳句の中で「やな」で終わっているのはこの句だけです。「やな」ってどういう意味ですか?
一応詠嘆だと考えていいんでしょうね。では「目刺し」とは?
出てきましたよ。春の季語。
しかしそもそもこの句は、
昼の月霍乱人が眼ざしやな
昼の月霍乱人が目ざしやな
と二様に詠まれていて、「眼ざし」「目ざし」も食べ物のメザシという意味だけではなく、「まなざし」「めつき」という意味にも取れますよね。さあ困った。これではおちおち解説なんかできないはずです。「メザシ」と「めつき」だと全然意味が変わってきますから。
ただそれにしてもこの句は、
「昼の月」は「霍乱人が目ざし」であることよなあ、と詠んでいるわけなので、「月」が「めざし」でなくてはならないことになりますね。そうすると、
霍乱人のメザシのような昼間の月が浮かんでいることだなあ
こんな解釈はどうなんでしょうね。それよりはむしろこちらが見上げておきながら見られているかのように、
昼間の月の投げかける光は、霍乱人のまなざしのようであることよ
と解釈したほうがすっきりしませんか。とにかく「霍乱人のメザシ」ととらえてしまうと、ただ珍妙な句ということになりかねませんが、
霍乱人の目指しているは、昼間の月のように仄かで厳かであることよ
という解釈もあり得るかもしれません。ただおそらく芥川の語彙で「目ざし」=「めざすこと」という使われ方はないと思います。
陽炎に狂ふ牡猫の眼ざし哉
これは食べるメザシですね。
木がらしや目刺にのこる海のいろ
木枯らしや目刺しに残る海の色
これも食べるメザシですね。ではやはり、
霍乱人のメザシのような昼間の月が浮かんでいることだなあ
というのが正解なんでしょうか?
私にはどうも「霍乱人のメザシ」がふざけすぎのように思えます。だからこそ霍乱人なのでしょうが。
霍乱の妙薬を呑んでいた芥川には昼の月があるいは目刺しのように見えたのかもしれない。「發句は行きて歸る心の味なり」というところに沿えば、これは確かに、
昼の月博覧人の目指しやな
という洒落の可能性を秘めつつも、
昼の月霍乱人の眼ざしやな
ここに留まると解釈すべきかもしれない。
趣味が広いな。
久米と桐谷天香が見合いをしていただと。
物知りだね。博覧だ。
目下交接中って、おい。
天国の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持っていない筈である。
これは『侏儒の言葉』。
確かに。