昔は嫌はずと見えたり
私は問う。芥川の『素戔嗚尊』に「まるで巣を壊された蜜蜂のごとく」「まるで蜂の巣を壊したような」とある。また「二足三足蹌踉(そうろう)と流れの汀から歩みを運ぶと」「蹌踉と家の外へ出た」「蹌踉と部落を逃れて行った」ともある。「慓悍な狩犬をけしかけたりした」「慓悍の名を得た侏儒でさえ」「以前の慓悍な気色などは」ともある。一作者にかやうの事例あるにや?
それでも「かやうの事は今の人の嫌ふべきを、昔は嫌はずと見えたり」が答えなのだろうか?
しかしさしあたり芥川の考えたいのはそこではないらしい。豊富な語彙を頼りに流麗な文章を書こうと思えばいつでも書ける。しかし昔の人は同じ言葉を繰り返し使う。例えば「しられぬ」の和歌は沢山ある。
海彼岸の文学に疎かつた?
いや、杜甫が出て李攀竜がでていれば十分なのではないかと思うが、芥川は厳しい。さらにこれを現代に置き直してみれば、――西洋の詩に詳しいのは……で行き詰まる。現在、日本における海外文学の受容は柴田元幸や村上春樹によるものが中心であろうが、李攀竜に当たる海彼岸の文学者の名前が挙げられる人は存在するものだろうか。三島由紀夫がラディゲとかバタイユを気軽に持ち出していたが、今ではそんなことは出来なくなった。この辺りの時代感覚は比較そのものが難しい。
はくらんの妙薬あり
芭蕉の言わんとするのは「發句は行きて歸る心の味なり」というところを無視して「この句二義に解すべく候」と去来が理屈をこねているのが気に入らないということであろう。
つまりこういうところで「はくらん(博覧)病が」ではなくて「はくらん(博覧)病の」ではないかというと叱られる訳である。
悪辣を極めた諷刺家
悪辣を極めた諷刺家は後に現れる太宰治である。いや、芥川自体がそうとうな諷刺家、というより少しひねくれていないか。
芭蕉を摑まえて「海彼岸の文学に疎かつた」というのはやや手厳し過ぎる言いがかりに聞こえる。
動詞の用法に独特の技巧を弄してゐる
この指摘が出来るのは自らが独特な動詞の用法に開眼していたからである。以前、「芥川は俳句の密度で小説を書いていた」と書いた記憶がある。しかし詰め過ぎない。なんとなくゆったりと読ませてくれる。
この「送つてゐた」がなかなか書けないところ、という感覚はまさに何か自分でものを書いたことのある人には明らかだろう。尖り過ぎてもいないし、ふざけてもいない。それでいて雰囲気が正確に伝わる。「漂わせていた」以外に言葉を探そうとして「送つてゐた」がするすると出てくるものではない。
芥川は芭蕉を換骨奪胎してこの言語感覚に辿り着いたのであろうか。
鐘消えて?
俳句における漢詩の影響に関しては既にアカデミックな場所で諸氏が研究議論されているので、倒装法うんぬんには触れない。しかしこのキレッキレの芥川の論の立て方を見ておきたい。
なんなら「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」という句の言詮を絶した芸術上の醍醐味をも嘗めずに、徒らに万巻の書を読んでゐる文人墨客の徒のふりをしている滑稽を笑うべきところではないか。芭蕉が読めばはくらん(博覧)病が買ひ候はんと得意の毒舌の先にさんざん飜弄したことであろう。
いや、「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」はさすがに無理があるだろうと、芥川も気が付いていた筈だ。
こんな苦しい解釈もあり、「面白味をつけた」という人もいる。いずれも倒装法を否定した解釈だ。しかしその技巧は無視して日本語としての意味を問えばまさに芥川の云う通り「鐘搗いて花の香消ゆる夕べかな」であり、これは十分良い句なのではなかろうか。
で「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」は滑稽ではなく「禅意」だとする解釈もある。
これは禅意だとしても私には滑稽である。何故か芥川は倒装法の成功例をあえて示さなかったのではなかろうか。
何故?
滑稽のために。
私にはそのようにしか思えない。はくらん(博覧)病の話の続きに「岑参の一聯に徴するがよい」と言い出す人は笑いを誘っていないであろうか。これが無意識ならなおおかしい。
いや、素直に「ふり」と「おち」の小話になっているとみるべきではなかろうか。学者ぶっちゃいけないね、といいながら倒装法がどうのと知識をひけらかし、肝腎の「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」の味わいはほったらかしだ。
件のアカデミックな御仁もそこが見えていないのではなかろうか。