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和辻哲郎と夏目漱石



※これはまだ下書きです。

 私は自分のイゴイズムと戦っています。イゴイズムそのものは絶滅は望まれないまでも、イゴイズムをして絶対に私の愛を濁さしめないことは、私の日常の理想でありまた私の不断の鞭です。この志向だけについて言えば別に問題はありません。これが真の自己を生かせる道ですから。
 しかし私は自己を育てようとする努力に際して、この努力そのものがイゴイズムと同じく愛を傷うことのあるのを知りました。私は仕事に力を集中する時愛する者たちを顧みない事があります。私を愛してくれる者はもちろんそれを承知してその集中を妨げないように、もしくはそれを強めるように、力を添えてくれます。しかし自分を犠牲にしてまでそれに尽くしてくれる者はただ一人きりです。他の者たちは、私からされるように望んでいる事を私が果たさない場合に、やはり私を不満足に思います。そうしてそれがその人たちのツマラないわがままから出ている場合でも、私を怨み憤ります。私は彼らの眼に冷淡な薄情な男として映るのです。(『ある思想家の手紙』和辻哲郎)

 これは大正五年十一月に発表された作品なので、まだ漱石の死の前(寸前)にある。この「イゴイズムと戦う男」がどうしても夏目漱石に思えてしまうのはあくまでも私の勝手である。勝手ではあるが、絶対に違うとは言わせない。どうもそんな感じがあることを和辻哲郎は確かに仄めかそうとしている。

 そもそも私は「小説の登場人物のモデルが単一の誰」と言う議論は本質的に下らないものだと考えている。それは『空手バカ一代』の飛鳥拳と有明省吾の関係にも言える。誰をモデルにしても必ずほかの要素が入ってくるのが創作だ。おそらくこの「ある思想家」のうちには和辻哲郎自身も入っていようし、漱石自身、あるいは『こころ』の先生に寄せている要素もあるのではないだろうか。それを無理にどれか一つにまとめて正解を求めるのは虚しいことではなかろうか。

 鏡子夫人に言わせれば寒月先生も漱石だということになるので、或る人物が因数分解され、組み合わされ、作中人物となることがむしろ自然であるという私の考えもさして見当違いなものではないのではなかろうか。あるいは和辻がどのような意図で書いたにせよ、この「ある思想家」がそのまま誰かであることは不可能だろう。そういう前提で敢えて言うと、私には和辻が『こころ』の先生に寄せている感じがプンプン臭う。


 もう夜がふけました。沈んだ心持ちで書き始めたこの手紙をとりとめもなく書きつづけて行く内に、私は興奮して五体に力の充ちたことを感ずるようになりました。あなたは喜んでくださるでしょう。あなたに読んでいただくずっと前に、あなたに手紙を書いたという事だけで私にはもう効能があったのです。私はこの手紙に論理的連絡の欠けている事を知っています。しかしそれはかまいません。私はもうこの手紙を書き初めた時の目的を達しました。
 空が物すごく晴れて月が鋭く輝いています。虫の音は弱々しく寂れて来ました。私は今あなたと二人で話に夜をふかした時のような心持ちになっています。では安らかにおやすみなさい。(『ある思想家の手紙』和辻哲郎)

 仮に敬愛する夏目漱石から、こんな手紙が届いたらどれだけ嬉しいだろうかと想像すれば、これは和辻哲郎にとって深夜の秘められたおかずそのものである。それをわざわざ皆に晒して、自慢するから余計にいやらしい。『こころ』の「私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか」という台詞に、和辻はくらくらと眩暈がしたことだろう。なります、先生、私は真面目です、血潮を浴びせてください、と走り出したい気分だったのではなかろうか。

 しかしこのイゴイズムに苦しむ思想家を『こころ』の先生にそのまま当てはめてしまうとやはり『こころ』をエゴイズムの話に押し込めてしまうので厄介だ。いや厄介なのは和辻哲郎が歴史上ある種の権威となり、和辻倫理学なるものが出来上がり、その思想の核に『こころ』の問題を引き受けた形跡がありありと見えることから厄介なのだ。

 夏目漱石の和辻哲郎への影響に関してはこの短い論文が語りつくしていると言ってよいだろう。

 しかし『こころ』をエゴイストの苦悩の話に押し込み、「私」の立ち位置を曖昧にしたまま「私」のモデルを和辻哲郎にしてしまい、和辻哲郎が望んだように夏目漱石を和辻哲郎に独り占めさせるのはさすがに「間違い」であろう。道に入ろうとした漱石が則天去私に向かうとしたら『明暗』の津田が悪びれず清子を追いかけまわすのはどうなのだろう。

 津田の知っている清子はけっしてせせこましい女でなかった。彼女はいつでも優悠りしていた。どっちかと云えばむしろ緩漫というのが、彼女の気質、またはその気質から出る彼女の動作について下し得る特色かも知れなかった。彼は常にその特色に信を置いていた。そうしてその特色に信を置き過ぎたため、かえって裏切られた。少くとも彼はそう解釈した。そう解釈しつつも当時に出来上った信はまだ不自覚の間に残っていた。突如として彼女が関と結婚したのは、身を翻す燕のように早かったかも知れないが、それはそれ、これはこれであった。二つのものを結びつけて矛盾なく考えようとする時、悩乱は始めて起るので、離して眺めれば、甲が事実であったごとく、乙もやッぱり本当でなければならなかった。
「あの緩い人はなぜ飛行機へ乗った。彼はなぜ宙返りを打った」
 疑いはまさしくそこに宿るべきはずであった。けれども疑おうが疑うまいが、事実はついに事実だから、けっしてそれ自身に消滅するものでなかった。
 反逆者の清子は、忠実なお延よりこの点において仕合せであった。(夏目漱石『明暗』)

 裏切られただの反逆者だのと、津田の言い分はかなり真面ではない。男と男が結ばれる成仏が仄めかされており、小林が二人、浮遊する視座と真面なところが何一つない『明暗』の不思議に和辻哲郎は辿り着いていない。


「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」(夏目漱石『明暗』)

 ここで漱石は津田をして、自分自身の行為の主体が自分であることを疑わせている。はっきりとした自己があり、意志があることが疑われている。自由意志や自己決定、そしてエゴイズムも同時に疑われていると見て良いのではなかろうか。

 エゴイズムと愛、そんな理屈では乃木大将が静子を殺したからくりは到底説明できないだろう。生かす筈の静子は何故死んだのか? 生かす筈の者が殺されては乃木大将の不名誉になる筈がなんとなく神になってしまう。神社が出来る。静子は貞女のシンボルとなる。おそらく静子を殺したものはエゴイズムではない。静子に軍旗を奪われた罪はない。純白である。三島由紀夫の妻のように、その後始末を引き受けなければならなかった筈だ。あるいは先生の義母の未亡人のように。しかし静子は殺された。遺書を書き換える間もなかった。このことで森鴎外は半信半疑になる。

 静子を殺したものとはエゴイズムでも愛でもなく、論理的連絡の欠けた同調圧力のようなものではないかと推測する。違うかもしれないがまずは推測する。

 今マスクなしで歩いている人を見ると「相当メンタルの強い馬鹿」だと思い込んでしまうが、実は単に同調圧力を感じない人なのかも知れない。逆に静子にはヒステリックなほどの虚栄心があり、夫のみを英雄にすることが許せなかった?

 

 『明暗』に対する素人の批判の手紙に対して、お延には案外裏がないのはわざとそう意図して書いているのだと漱石は反論する。自然主義的な発想では人間の生々しさを誇張してどうしても内面を暴露させがちだが、案外裏が無いという事もあるのではないかという発想のようだ。ここから私の考えの付け足しになるが、フロイト以降、我々はどうしても無意識の領域に本音のようなものを見出しがちだが、フロイトに汚される以前の漱石の方が人間の心というものを正確に捉えていたのではないかと思えるのだ。

 無意識や暗黙知というものはおそらくある。あるけれど無意識や暗黙知なので意識には上らない。だから内面を見てもそこは空っぽである。人からどう見えるかは勝手だ。女同士の口喧嘩には感情があり見栄があり怒りがあろうが、それは一人で作られたものではなく相手によって引き出されたものであり、共同作業でもある。いわゆる負荷なき自己などないし、リチャード・ローティが言うように自己など偶然の産物である。感情など簡単に変わる。『行人』のびんた、『こころ』のこの部分が自我とか無意識といったフロイト的精神分析を超えたものであることは確かだろう。

「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
 私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」(夏目漱石『こころ』)

 この間、傘を後ろに振って歩く人と傘を前に振って歩く人の間に挟まって歩いたことがある。

 ここで無意識などという分析は無意味である。あるのは私の「迷惑」という感情である。正確には微かな殺意である。まさか本当に殺人までは意図しないが、イラっとする。

 大脳は生命維持に支障のないような部分を受け持っているから悩む。小脳は生命維持に必要な部分を受け持っているから悩まない。その悩まない小脳が本音だとは誰も思わないだろう。

 敢えて無茶を言ってしまうと、漱石はどうも和辻倫理学では捉えきれない人間の本質に迫ろうとしていたように思えてならないのである。徹底したアイロニストであり続けることで、漱石は吾輩やおれや私を完全に信じてはいなかった。真面目ではあるがどこかふざけていた。人間にはそういうところがあること、有り得ること、あるいは「おれ」のような真っすぐな人間がはたからはどこか滑稽に見えること、そういう演技の妙味を知っていた。本人が大真面目であることこそが滑稽である場合、その人は真面目な人であろうか、滑稽な人であろうか。

 長井一郎は癇癪持ちだが滑稽である。エゴってなんなのだろう。エゴイズムをウィキペディアで見ると「自己の利益を重視し、他者の利益を軽視、無視する考え方」とある。他の人のものを何とか奪い取ろうとするのはエゴではなく泥棒である。エゴイズムの反対語はアルトゥルーイズムとされているが、それはなかなか難しいものではなかろうか。

 リチャード・ローテイの言うように残酷さの回避という点で何となく同意する感じがギリギリであり、酒鬼薔薇くんが言うようにガンジーは禁欲に快感を見出す変態なのだ。スーパーボランティアはどんな金持ちより幸福だろう。そうした形でなら誰かは「利他主義者」になれる。デカ盛りなのに安い店の店主のような「利他主義者」は「お客に喜んでもらえること」が金儲けより嬉しいだけなのであるが、それは本当の意味での「利他主義者」ではなかろう。

 「利他主義者」と言える可能性のある人物を漱石は一人だけ描いた。それは『こころ』のKである。しかしそれは小刀細工をお祝いに見立てたところに表れる一解釈であり、当然もっとうまいお祝いの仕方もあった訳なので、褒めたたえる訳にはいかない。「お前がのんびりしているから俺が噛ませ犬になってやったんだよ」とでも苦しい言い訳をすれば笑い話で済んだかもしれない。先生を悪者にすることもなかった。「私」は先生を全肯定しているが、先生がエゴイズムを克服する倫理を獲得しているとは見做し難い。この問題を和辻が重く受け止めすぎて、『明暗』の深堀りに進まなかったこと
が大いに問題なのではなかろうか。









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