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芥川龍之介の『蜘蛛の糸』をどう読むか② 孤独のグルメの秘密 

 一体何が小説を小説たらしめるか、この問いにはそれぞれの作家がそれぞれの答えを持っていることだろう。例えば夏目漱石は、何かを隠すこと、皆まで言わないことという流儀を確立したように思える。芥川龍之介の場合は逆説である。ひねりがなければ書く意味がないと考えていたかのように、常に隙を窺っている。そのことはさして隠されてもいない。
 例えば今、『孤独のグルメ』をぼうっと眺めている人たちは、何が孤独のグルメを成立させているのか気が付いているだろうか。孤独のグルメは現代人に平等に与えられた権利などではない。そんなものは愛妻弁当を持たせられたら成立しないのだ。その権利は与えられるものではなく、家庭を拒絶して勝ち取るものなのだ。従って井之頭五郎は愛妻を持つことができない。

 このレトリックはさして隠されてもいない。例えば井之頭五郎は時々「柄にもなく」、「こんな料理上手な奥さんがいたら」「いや、いかんいかん」とアセクショナルでもないことを匂わせる。しかしそもそもキャラクターの年齢からして、井之頭五郎は頑なな独身主義者であり、昼飯で二千円以上使うことに何の躊躇もなく、満腹になることができる程度に家庭の団欒のない男だ。現代人に共通したペルソナではない。井之頭五郎はどこにでもいる普通の人ではない。少し変わっている男だ。
 

 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読むにあたって「御釈迦樣」がどういうお釈迦様なのか、と前回考えてみた。

 どうもこの「御釈迦樣」はマスイメージとしてのお釈迦さまとは明らかにペルソナが異なるからだ。どうも変わっている。普通の仏さまではない。ユンソナとコンソメくらい違う。そりゃ、随分違うな。悟った筈なのに極楽で悲しそうな顔をする。この意地の悪い逆説が芥川龍之介の一貫した企みだ。

 同じく童話の『杜子春』を読んで、「人間らしい、正直な暮し」をそのまま受け取っている人がいる。悪い人ではないのだろうが、……感想文をさらす大人と見れば、あまりにも迂闊だ。家庭の排除にも、馬の体に人間の顔があることの狂気にも気が付いていない。

 つまりそういう人はおそらく井之頭五郎も杜子春も家庭を拒絶していることに永遠に気が付かないのだろう。チーズが伸びて美味しそう、……とか、そういうことだけ考えているのだろう。それはそれで幸福な人生なのかもしれない。ただ、それでは『杜子春』を読んだことにはならない。眺めただけだ。それで自分なりの感想を書かれてはたまらない。

 芥川は明らかに「御釈迦樣」と仏教に喧嘩を売っている。仏を「御釈迦樣」に戻すことで既に喧嘩を売っているのだが、何しろやらせたことが「釣り」なのだから。

 どれだけ偉くなれば誰かは人間を釣ることができるのだろうか。仏ならば許されるだろうが、果たして釈迦に許されるのか。こういってはなんだが、仏の役割は釣りではなかろう。仏陀は衆生を極楽に導く正しいプロジェクトマネージャーでなくてはならないだろう。しかし彼は失敗した。失敗した理由は明らかに人間というものを知らなさ過ぎたからだ。
 それを我執と呼んで卑しんでも責任転嫁は出来ない。プロジェクトマネージャーにはChief Information Officerからしかるべき情報を聞き取る必要があった。情報収集を怠り、あてずっぽうに行動した。結果として救われるべき人間を一人弄ぶことになった。これが仏のやることだろうか?
 このお釈迦さまの釣りに気が付かなければやはり『蜘蛛の糸』を読んだことにはならないだろう。

 以前この『蜘蛛の糸』の設定に関して、

①蓮の花が真っ白であること

②蓮の花が昼に閉じないこと

 ……に関して謎だと書いた。大抵の蓮の花は薄いピンク色だ。

 三四郎池の蓮の花もピンク色だ。白い蓮の花もあるにはあるが、蕊が黄色なので真っ白には見えない。このことは譲るとしても、蓮の花は早朝に咲き昼には閉じる。芥川がそのことを知らないわけもなかろう。このことと、次の仏陀が現れる前に地球が燃え尽きてしまうこと、仏陀がお釈迦さまだけであること、この仏教の根本的な不可能性を付け合わせてみると、ここには「無理」という逆説が隠れていたのではないのか、と思えてくる。
 むしろ悟った筈なのに極楽で悲しそうな顔をする仏になり切れていないお釈迦さまと対比されるように、不可能な蓮の花があることが芥川の狙いだろうか。

 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。

(芥川龍之介『蜘蛛の糸』)

 この蓮の花の方がむしろ「仏」然としている、という皮肉、「極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません」というひっそりとした擬人化が芥川の逆説であり『蜘蛛の糸』を小説とする肝であろう。肝を味わえなくてはグルメとは言えない。まことに読書とは家庭を拒絶した孤独なグルメである。


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