今日は例に似ず大いに断々乎としているね
主要な国語辞典に「断々乎」の項目はない。
意味は用例からしても文字面からしても「断乎」「断固」と同じものと考えられる。「乎」に「その状態であること」という程度の意味があるので、「岌々乎」といった表現もある。
ちなみに戦前は盛んに用いられた「断々乎」は、青空文庫で検索すると坂口安吾が盛んに用いるほかはわずかに二例ほどしか使用例がない。敗戦により「断々乎」としたものが失われてしまった所為であろうか。
阿父っさんも故障を云やしない
専ら機械が壊れることなどに用いられる「故障」には「異議」という意味もある。
用例が古いな。
おおよそ複雑な機械などない時代から使われていた言葉なので、元々が「故障り」であり、その意味では使われなくなったようだ。「異議」の意味での使用例は、泉鏡花、谷崎潤一郎までといったところか。
まず現代文では見られない表現なので注釈が欲しいところだ。
きた路は青麦の中から出る
この「青麦」の項目、大辞泉、新辞林、日本国語大辞典、学研国語大辞典、明鏡、新明解にはない。
よくぞ夏目漱石は穂が出る前に麦だと解ったものかと不思議になる。米のなる木はしらないのに。
なるほど宗近君は靴のままである
この「靴のまま」にも岩波の注はない。電車に乗る時に靴を脱いだのは大昔の日本人で、明治も四十年経つと西洋間は靴で這入るものかと思ってみたが、どうもそんな感じがしない。
ホテル、海外を除けば、西洋間だから靴のまま、という事例がなかなか見つからない。ここは甲野家がかなり西洋化していたというふうに読むべきところか。
藤尾は駄目だ。飛び上りものだ
この「飛び上りもの」に岩波の注はなく、主要な国語辞典にも説明がない。インターネットでは、
といった解釈がなされている。なるほど「跳ね上がり者」らしき用例はいくつか見つかる。しかし「成り上がり者」の事例は見つからない。何処に根拠があるのか解らない情報だ。
揃えて渡す二本の竹箸
ここで岩波は「出雲焼」に、
と簡単な注を付ける。
鳳凰のような繊細な絵付けは有田焼向けではないかと思うが、まあそれは良しとしよう。
問題は竹箸だ。西洋間に靴で上がる時代に、ビスケットを箸で食べるのか、と思わせる記述だが、これはどうなのだろう。しかもよくよく読むと紅茶が先に出たとも書かれていない。ダンキングとまではいかないまでも、ここは飽くまで英国流ではなく、和式にこだわった場面か。それゆえの敢ての「和製のビスケット」で「出雲焼」なのかと思うところ。
洋式な甲野家と和式な井上家の対比であろうか。
それにしたって口の中がぱさぱさになるぞ。
[余談]
注釈者が作中の「虚栄の市」の意味にも気が付かず、談話にある「爆発」の言葉を漏らしているのはいかがなものか。
一応「毒薬を飲んで自殺した」という通俗な解釈を否定していて安心したが、まだまだ足りないところがたくさんある。
しかしまあ一応『虞美人草』はこれで終わりにする。クライマックスにかけての宗近家の活躍ぶりはドラマだと勇ましい音楽があてられそうだ。
ところで何で虞美人草なんだろう?