見出し画像

江藤淳の漱石論について⑲ 先生の正体

  江藤淳は夏目漱石の『心』の先生について、こんなことを書いている。

「先生」とは何者だったのか? それは「黒い光」に照らし出された「黒い影」、つまりあらゆる人間の心のなかに潜む、あの存在することが必然的にもたらす"影"と"闇"そのものにほかならない。(「『それから』と『心』」『漱石論集』所収)

 この「ほかならない」は柄谷行人にも遺伝する。柄谷行人はやたらと「ほかならない」を連呼する。そう決めつけなくてもいいんじゃないかというところで、「ほかならない」を使う。ホカホカ弁当はほか弁に「ほかならない」という具合に使う。しかしこの「ほかならない」はどうも違う。まずそもそも「ほかなる」のではなかろうか。私は繰り返し小説など好きに読めばいいとは言いながら、最低でもここまでは読めていなければならないという水準がある、そうでなければ国語のテストなど成立しないと主張してきた。自然言語の多義性というものを前提にしても、正しい読みというものがありうると考えている。しかしこれは違う。「ほかなる」。

 先生が「あらゆる人間の心のなかに潜む、あの存在することが必然的にもたらす"影"と"闇"そのもの」であるとしたら、先生はあらゆる人の属性と化してしまう。つまり既に人ではなく、個性も持ち得ない。

 江藤淳はさらに自著『明治の一知識人』(昭和39)から引用してこう述べる。

「先生」は、自殺を決行するにあたってさえ、孤独からの逃避という単なる個人的な動機を超えた動機を必要とした。彼は去り行く明治の精神のために死ななければならなかった。そうしてこそ、はじめて、彼の自殺は、人間の条件からの逃避にとどまらず、何ものともつながらぬ、形式を喪失した自我の暴威に対する自己処罰の意味を持ち得るのである。

 江藤はそれをどう受け取ったのか、瞬間的に発作を起こして、風呂場で手首を切って死んでしまったんだ。お手伝いさんが約束の時間に四、五時間遅れて家に帰ったら、どうも様子が違うので風呂場まで行ったら、そこで江藤が死んでいたんだよ。(中略)その女性がもう帰ってこないと思い込み、突き放されたような孤独になったんじゃないかと思うな。

 と石原慎太郎は語る。江藤淳の言葉を孤独により発作的な死を選んだのかもしれない自殺者の言葉として読んでしまうと「孤独からの逃避という単なる個人的な動機を超えた動機を必要とした」という見立てと「形式を喪失した自我の暴威に対する自己処罰」がむしろ江藤淳自身の自己抹殺願望のようなものとしてさえ見えて来る。

 犬を飼っているということは、二人女房を持っているようなものだ。これは妻妾同居という意味ではなくて、まったく同じ女房が二人いるという意味である。だから女房を連れて来いというなら、犬も連れて行かなければならない、犬を置いて行けというなら、どうして女房を置いて行ってはいけないのだろう。どちらかにしなければ、私の精神のバランスが崩れてしまうのです。(江藤淳『犬と私』)

 このロジックからすれば、江藤淳にとっては女房が死んだから犬も要らないことになってしまう。それなのに新しいお手伝いさんに来てもらうことになって、急に犬の不在が突き付けられ、精神のバランスが崩れてしまったのではないかと考えられる。しかしそれは飽くまで江藤淳の話だ。江藤は先生の自殺に漱石自身の喪失感の深さを見出す。これもほかなる。

 私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。(夏目漱石『こころ』)

 江藤が注目する通り、この話は「すべて事件が終わってしまったところから叙述されている」のだ。その上でのこの冒頭のすがすがしさの意味に江藤は辿り着いていない。「私」は既に何が起きたのかを知っていて、静がまだ先生の過去を知らないことを知っている。先生の話を書こうとしている。まさに書いている。Kの自殺も知っていて先生をなお全肯定している。人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人だと書いている。その理屈に届いていない。先生の長所が語られないので、なぜ語り手が先生をそれほどまでに賞賛するのかがわからなかった。とルーマニアのAdinaさんは感想を述べている。江藤淳にも解らなかったのではないか。

先生が勇気を出して、ほとんど知らない青年に手紙で過去の悪事を告白し、社会から自らを追放することで一種の救済を得る一方、名もなき弟子は、ゆっくりとした肉体の死の恐怖と苦悩を乗り越え、自然の摂理を受け入れることを学ぶのである。人間の魂の堕落を力強く描いたこの作品は、悲しい結末と楽観的な始まりが並存することを上品に認め、人間の命のはかなさを物語っている。

 こんなSamadritaさんの感想レベルに江藤淳が届いていない。ゆっくりとした肉体の死の恐怖と苦悩を乗り越え、自然の摂理を受け入れることを学ぶとは明らかに書かれていないことなので厳密には深読みになってしまうが、肉体の死の恐怖と苦悩を乗り越え、自然の摂理を受け入れることを学ぶという経験を経なければすがすがしい冒頭はあり得ないという理屈はそう乱暴なものではない。

 当たり前のことだが意識はそれからそれへと移り、前のことは次第に忘れてしまう。しかし冒頭のすがすがしさを忘れて『こころ』を論じるものがあれば、やはりそれは間違いだと言わざるを得ない。江藤は、

 主題は鮮烈なかたちで浮き彫りにされ、「黒い光」に照らし出された「黒い影」の重みを読者の"心"に刻みつけずにはおかない。(「『それから』と『心』」『漱石論集』所収)

 と語る。これでは「最後が暗かった」という中高生の感想と何ら変わりない。「私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。」と先生は書いている。「その作物の奥より閃き出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡を残す」ことを意図したなら、必ず「黒い光」に照らし出された「黒い影」ばかりではなく、真と善と美と壮を見なくてはならない。では果たして、先生の正体とは何なのか、先生が全肯定される根拠はどこにあるのか。

 そのことについて私は一つの解釈を既に示している。今回はまた別様の解釈を示そう。Kが先生の為にお祝いを差し上げ、小刀細工の自己犠牲をしたことは既に書いた。Kは先生が生涯嫉妬を消せない真砂町事件に「臭い物に蓋」をした。先生は静をなるべく純白なままにしてやりたいと「臭い物に蓋」をした。しかし先生はもう一つの自己犠牲をしている。先生は自ら死ぬことにより、そして静を残すことにより、乃木大将の殉死の唐突さと、静子が殺されることのいかがわしさを指摘しているのだ。幸徳秋水殺害以降、これは命がけの冒険である。

 そもそも存在しない者が「身を挺して」などと書くことは大げさすぎるかもしれない。しかし先生が死に、静が残されなければ乃木大将夫妻の殉死のいかがわしさが誰にも伝わらなかった可能性がなくもない。現に森鴎外が「殉死は殿様の許しを得て、時と場所を決め、介錯人を決めて行うべきもので、女房を道連れにすべきものではない」とやはり命がけで繰り返し書いているのに、私以外誰一人そのことに気が付いていないのだ。

 私はこの二人の文豪の明治政府批判をあっぱれと思う。仮に先生を持ち上げる理屈があるとすれば、先生の死を自己犠牲とみなければならないのではなかろうか。先生は死を賭して静子の殉死と明治の精神のいかがわしさを問いかけたのだ。無論、そもそも実在しない先生が死んで何が自己犠牲だと云えば、それまで。先生の死が作品の外側に意味を持つことは認めたくないという人もいるだろう。では「その作物の奥より閃き出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡を残す」とは作品の外側に意味を持つことそのものではないのか。今AはSの子と書く勇気のある作家はあるまい。しかし夏目漱石と森鴎外ならば、きっと書いただろう。だからこそ二人とも100年読み継がれてきたのだ。

 先生の正体、それは作物の奥より閃き出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡を残すための文字にほかならない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?