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江藤淳の漱石論について⑦ 現実逃避と隠れ家、『明暗』のその先


 夏目漱石の『道草』が『吾輩は猫である』に比べて寂しげなのは、そこに描かれてもいいはずの木曜会が描かれず、一人の青年とのさして陽気ではない会話が現れるだけだからではなかろうか。

 彼はまたその世界とはまるで関係のない方角を眺めた。すると其所には時々彼の前を横切る若い血と輝いた眼を有った青年がいた。彼はその人々の笑いに耳を傾むけた。未来の希望を打ち出す鐘のように朗かなその響が、健三の暗い心を躍らした。
 或日彼はその青年の一人に誘われて、池の端を散歩した帰りに、広小路から切通しへ抜ける道を曲った。彼らが新らしく建てられた見番の前へ来た時、健三はふと思い出したように青年の顔を見た。
 彼の頭の中には自分とまるで縁故のない或女の事が閃めいた。その女は昔し芸者をしていた頃人を殺した罪で、二十年余あまりも牢屋の中で暗い月日を送った後、漸っと世の中へ顔を出す事が出来るようになったのである。
「さぞ辛いだろう」
 容色を生命とする女の身になったら、殆ど堪えられない淋しみが其所にあるに違ないと健三は考えた。しかしいくらでも春が永く自分の前に続いているとしか思わない伴れの青年には、彼の言葉が何ほどの効果にもならなかった。この青年はまだ二十三、四であった。彼は始めて自分と青年との距離を悟って驚ろいた。
「そういう自分もやっぱりこの芸者と同じ事なのだ」
 彼は腹の中で自分と自分にこういい渡した。若い時から白髪の生えたがる性質たちの彼の頭には、気のせいか近頃めっきり白い筋が増して来た。自分はまだまだと思っているうちに、十年は何時の間にか過ぎた。
「しかし他事じゃないね君。その実僕も青春時代を全く牢獄の裡で暮したのだから」
 青年は驚ろいた顔をした。
「牢獄とは何です」
学校さ、それから図書館さ。考えると両方ともまあ牢獄のようなものだね」
 青年は答えなかった。(夏目漱石『道草』)

 吾輩は「笹原」に捨てられる。K.Shioharaと署名された夏目金之助の作文を読み、漱石の養家「塩原」の読みが濁らないことに気が付いてみれば、「笹原」は普通地名や人名であり、竹藪と呼ばれているものであることにも気が付く。竹藪をわざわざ笹原と呼ぶのは、やはり塩原との因縁があるからだろう。そんな『吾輩は猫である』が滑稽である理由の何割かは、若い血と輝いた眼を有った青年たちのおかげである。二つの作品を比べればまさに明と暗である。

 健三は妻や親戚、子供との間にも安らぎを見出せない。実の父からは苛酷に扱われた記憶しかない。五女・雛子の死に際して、この子が一番可愛いかったとして、他の子たちを軽んじるような言葉を残している漱石だが、実際他の子たちからしてみれば、漱石は健三のようなパワハラ親爺、ドメスティックバイオレンス親爺であったようだ。無論健三は漱石ではない。しかし妻や親戚、子供との関係においては、健三は実際の漱石にかなり似ていたとみてよいだろう。

 無論全集の別巻を読んだ者ならば『道草』に対して、「何故金ちゃんはこんな嘘を描くのだろう」と養父・塩原昌之助から異議が出されていることも知っていよう。『道草』がありのままを書いた自伝的私小説ではないこともまた確かである。そこに書ききれなかった、いや、敢えて伏せられた桃源郷、それが木曜会であったと私は考えている。機智とユーモアにあふれた会話が飛び交う、「こんな話があります」という脅かしっこの場、若い血と輝いた眼を有った青年たちに囲まれた木曜会は、ある意味では「現実逃避」と言えるかもしれない、漱石の隠れ家であったのではなかろうか。無論ここで私は「現実逃避」を「息抜き」という程度の軽い意味で使っている。

 それは『明暗』執筆時の午後の漢詩と同じく精神のバランスを取るための方便で、漱石の小説は「則天去私」へと向かいながら、なお牢獄で獲得した成果を駆使した現実との格闘の記録であったと言ってよいのではなかろうか。『明暗』の本文は307662文字にも及ぶ長編小説でしかもしかも新聞連載小説である。1916年5月から12月にかけて「朝日新聞」に掲載された。未完である。この『明暗』に対して、江藤淳は一旦は「近代日本文学史上最も知的な長編小説」「真の近代小説といい得る作品」と激賞しながら、次第にその評価をしぼませていき、『江藤淳は甦える』によれば、昭和四十九年「失敗しているかどうかは議論がわかれるでしょうが、くたびれ果てて、もう倒れちゃった」と終わりがない可能性も示唆している。

 しかし私は『明暗』にはまだ書かれていない予定が確実にあり、まだ先は長いと考えている。

 まずは既に進められている「お金さん」の嫁入りまでにはいくつもの段取りが必要であろうし、小林がこのまま朝鮮に行くとも限らない。「三好」と「継子」の縁談もまだ片付かない。「断片七十三B」には「小山」「直之助」という名前が見られるが、その名は『明暗』にはまだ現れない。これらは名前を伏せられてすでに作中に現れている誰かではないかとも考えられるが、誰とも特定できない。「小山」は男で吉川夫妻と関係しているようだ。

 また吉川夫妻の名前は、「断片七十三A」によれば「吉川正夫」「吉川奈津」である。この「正夫」「奈津」の文字も『明暗』にはまだ現れない。吉川夫妻に並んで「直之助」と「三好」が並ぶ断片からは、この二人が吉川夫妻の関係者であることが推察される。「直之助」が「吉川奈津」の兄か弟、「三好」がその友人という感じだろうか。いずれにしても「三好」と吉川夫妻の間で、何か物語が展開しないわけにはいかない。また、津田が吉川夫人に背中をどやされた賠償として、背中をさすられる展開も示唆されている。お延を躾けるといった吉川夫人の手際がどう決着するものか、ここは必ず書かれなければならない。漱石はまだまだ書くつもりでいた。病床にありながら、まだ書かねばならないと闘っていた。

 仏教用語に愛着の心からする愛論と、道理にくらい偏見からする見論(けんろん)という言葉がある。柄谷行人式の読み誤りを前提にした漱石論が見論、江藤淳は愛論であろうか。この二つを合わせて戯論けろんと呼ぶ。無益な、また無意味な言論の意味である。

水村美苗の『續 明暗』は書き残された設定をしっかり拾っていただろうか。





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