見出し画像

江藤淳の漱石論について⑧ 「明治天皇奉悼之辞」

明治天皇奉悼之辞
過去四十五年間に発展せる最も光輝ある我が帝国の歴史と終始して忘るべからざる大行たいこう天皇去月三十日を以て崩ぜられる天皇御在位の頃学問を重んじ給ひ明治三十二年以降我が帝国大学の卒業式毎に行幸の事あり日露戦役の折は特に時の文部大臣を召して軍国多事の際と雖も教育の事は忽にすべからず其局に当る者克く励精せよとの勅諚を賜はる
御重患後臣民の祈願其効なく遂に崩御の告示に会ふ我等臣民の一部として籍を学界に置くもの顧みて
天皇の徳をおも
天皇の恩をおもひ謹んで哀衷を巻首に展ぶ
(江藤淳『旅の話・犬の夢』)

 これは漱石の署名なく、「法学協会雑誌」に掲載された「明治天皇奉悼之辞」の孫引きである。この資料を確認するように江藤淳に指導したのは、三島由紀夫が死の一週間前の対談で「一番悪い奴」と指摘した小泉信三である。こうした資料をそのまま受け取ってしまったことも、江藤淳が夏目漱石をナショナリストと見做し、その考えを踏み固め続ける要素の一つであったと言えるかもしれない。

 江藤淳が「明治天皇奉悼之辞」のことを小泉信三から指摘されたのは小泉の死の半年前とされているから、1966年(昭和41年)はじめか1965年(昭和40年)暮れのことかと推察できる。江藤淳が「夏目漱石論」を『三田文学』に発表したのは1955年、その約十年後に死の間際の小泉信三からわざわざこんなものでナショナリストとしての漱石を念押しされていたことになる。

 この「明治天皇奉悼之辞」の原稿がいつ書かれたものかは定かではない。「大行天皇」は「通常」天皇が崩御したのち、まだ諡(おくりな)を奉らない間の尊称ではあるが、単に先帝の意味でも使われる。「殯宮の間に於ける天子様を、大行天皇と申上げて居る。」「屍を呼ぶ名であり、霊魂を名ざしての称へである。」と折口信夫は書いている。問題は最後の二行である。ここで先帝を「天皇」と呼んでしまっている。漱石の語彙では今上天皇はむしろ「天子様」である。大正天皇崩御の際には官報にさえ現れる「聖上天皇」の意識もないことも明らかである。「大行天皇」はある役割を果たした天皇であり、「聖上天皇」ではない。

 当然漱石は天皇個人の死については悼む気持ちは有しており、御大喪の頃撮られた写真には喪章もあることから、夏目漱石は明治天皇を崇拝していたという誤解を抱く人がいても何ら不思議ではないが、夏目漱石を論じるものがこの程度の資料に目が眩んでしまうことが如何にも残念である。漱石は殿様の方が天皇より偉かったと講演で述べており、天皇の権威というものを明治政府の一機能としてしか認めていなかった。

「時に何時かな、君ちょっと時計を見てくれ」
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
「旨い事をしたなあ。僕も貰って置けばよかった。こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだいっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
 門口で分れた小野さんの足は甲野の邸に向った。(夏目漱石『虞美人草』)

「君これからどこかへ行くのかい」と話がそらされているのは、天皇が保証したからといって確かではないという合理的な判断である。漱石はキリスト教の現人神も信じない。(断片四A)


God in its incarnation is necessary for their belief to form a palpable ground to rest on.  (断片四A)
彼らの信仰が確かな根拠を形成するためには、その化身である神が必要なのだ。 

 また、絶対的な人間というものも認めない。

Man the absolute is invisible and therefore undefinable.
Man the concrete has two lateral eyes and one vertical nose and knows the taste of the forbidden fruit.(断片十三) 
絶対的な人間は目に見えず、したがって定義できない。具体的な人間は、2つの横目と1つの縦鼻を持ち、禁断の果実の味を知っている。


  漱石は、桓武天皇以前の天皇を認めない。一方では天皇を天子様と呼びながら、天孫とは認めないのだ。

「そうさな。今のような善知善能の金を見ると、神も人間に降参するんだから仕方がないかな。現代の神は野蛮だからな」(夏目漱石『永日小品』)

 この神は現代の神なので唯一絶対神ではなく、現代に誕生した神である。『永日小品』はまだ春とは言えぬ、時期に書かれた「小説」である。明治天皇の御印は「永」である。

 陽気のせいで神も気違いになる。「人を屠りて餓えたる犬を救え」と雲の裡より叫ぶ声が、逆しまに日本海を撼かして満洲の果まで響き渡った時、日人と露人ははっと応えて百里に余る一大屠場を朔北の野に開いた。(夏目漱石『趣味の遺伝』)

 日露戦争は明治天皇の開戦の詔によって始まった。この神の声は日本の運上より発せられ、満州に届いている。文章を正しく読むとは、例えばこの矢印、位置関係を無視しないことだ。つまりこの神は明治天皇である。(あるいは明治天皇に命じた天照大神である。)漱石は明治の四十年に尊敬すべき人物は一人としていないとも書いている。『京に着ける夕』でわざわざフューチャーする桓武天皇の生母は百済系の高野新笠である。

 夏目漱石の天皇観は、三島由紀夫の天皇観同様解り難い。太宰治の『十五年間』にある「天皇陛下万歳!」が厭味な皮肉であり滑稽な洒落であるとすれば、三島由紀夫の「天皇陛下万歳!」は度が過ぎた皮肉であり笑えない大真面目である。太宰の「天皇」が個人であるのに対して、三島の「天皇」は個人ではなく、天照大神と直結した天孫である。森鴎外の「天皇」は血脈とは無縁の、決め事としての役割である。森鴎外の小説には養子が多く出て来る。家系図は三代も遡れば養子が出てきて血脈は途絶えることを重々理解したうえで、森鷗外は『帝諡考』『元号考』に向かう。

 江藤淳は三島由紀夫よりも(昭和)天皇の方が「天皇」について考えていたと語るが、それは果たして正しいだろうか。つまりそのように比較が可能だろうか。それぞれの「天皇」がそもそも違うものなのに、比較することが可能であったり、意味があったりするものだろうか。天皇自身は、一般には公開されていない資料を読むことができ、秘事を見て体験することが可能なので、殯宮日供の儀に関して荷田春満より詳しいかもしれないが、平田篤胤は読まないだろうから、その儀礼の意味は知らないだろう。現在の上皇は小泉信三によって福沢諭吉の『皇室論』を叩き込まれた。その教育のバイアスから逃れて自由に思考することなどおそらく不可能だろう。比較は不可能、意味がないとしながら矛盾するようだが、そもそも最も「天皇」について自ら考えることを禁じられているのが天皇なのではなかろうか。

 そのような意味で江藤淳の天皇観にもどこか自由さがない。「明治天皇奉悼之辞」で天皇の悪口を書くわけにはいかないのは当然。褒めている中身にはさして無理はなく、ある意味正直なところであろう。ただ小泉はこの「明治天皇奉悼之辞」と『こころ』を結びつけようとしたのだ。それを江藤淳は素直に受け取った。それには無理がある。三島由紀夫を右翼と見做す程度に無理があるのだ。

 三島由紀夫にも夏目漱石にも保守的なところがあり、社会主義者のようなところもある。自分の主義を貫くことで他人からは色々に見えてしまうのだ。

「誰がそんな事を云うものですか。――云やしませんが、御兄さんからこうやって、急用だって、御使が来ているんですから行って上げなくっては義理がわるいじゃありませんか」
「それじゃ演説をやめなくっちゃならない」
「急に差支えが出来たって断わったらいいでしょう」
「今さらそんな不義理が出来るものか」
「では御兄さんの方へは不義理をなすっても、いいとおっしゃるんですか」
「いいとは云わない。しかし演説会の方は前からの約束で――それに今日の演説はただの演説ではない。人を救うための演説だよ」
「人を救うって、誰を救うのです」
「社のもので、この間の電車事件を煽動したと云う嫌疑で引っ張られたものがある。――ところがその家族が非常な惨状に陥って見るに忍びないから、演説会をしてその収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ」
「そんな人の家族を救うのは結構な事に相違ないでしょうが、社会主義だなんて間違えられるとあとが困りますから……」
「間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、ただ正しい道がいいのさ
「だって、もしあなたが、その人のようになったとして御覧なさい。私はやっぱり、その人の奥さん同様な、ひどい目に逢わなけりゃならないでしょう。人を御救いなさるのも結構ですが、ちっとは私の事も考えて、やって下さらなくっちゃ、あんまりですわ」
 道也先生はしばらく沈吟していたが、やがて、机の前を立ちながら「そんな事はないよ。そんな馬鹿な事はないよ。徳川政府の時代じゃあるまいし」と云った。(夏目漱石『野分』)

 電車事件とは1906年の「東京市電焼き討ち事件」を差すものと思われる。ここでは当時の明治政府の剣呑さが指摘されている。半藤一利も指摘している通り『坊ちゃん』では御一新は「瓦解」である。

「明治新政府だの、勲一等だのと威張っているヤツが東京にたくさんいるけど、あんなのはドロボウだ。7万4000石の長岡藩に無理やりケンカを仕掛けて、5万石を奪い取ってしまった。連中の言う尊皇だなんて、ドロボウの理屈さ」

 と、半藤一利の祖母は語っていたという。

 それでも時代進み、なんとか戦争も済んで、恐慌も起こったが、兎に角明治という時代は終わった。その感慨は「平成から令和に変わった」などという感覚とは比較にならないものであったろう。受け止め方はさまざまにせよ、夏目漱石もそこに無関心ではなかった。日記にはまるで新聞記事を書き写したかのような明治の終りに関する詳細な記録が残されている。天皇個人には哀悼の意はあり、崩御から登極の儀に至る式典や手続きには歴史の目撃者として深い関心があったというところまでは事実だが、喪に服すほどの忠義がなかったのも事実である。繰り返すが、夏目一家は明治天皇崩御の翌々日から鎌倉に泊りがけで海水浴に行くのだ。那須塩原への旅行は十七日からである。

 江藤淳は『人と心と言葉』の中でこんなことを書いている。

 まさかあの『坊ちゃん』の作者が、桂びいきで西園寺嫌いだったはずもあるまいと、(「漱石と文芸懇談会」『人と心と言葉』所収/江藤淳/文藝春秋/平成七年)

 桂太郎は元長州藩士、西園寺公望は公家の出である。私には江藤の言う「まさかあの『坊ちゃん』の作者が」という感覚が解らない。確かに「おれ」は「日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと」殴る。ちゃんちゃんを殴る「おれ」は明治政府かといえば、会津っぽの山嵐と共闘するのでいかにもらしくない。松山を不浄の地と呼ぶ「おれ」は江戸っ子なので、むしろ西軍に攻められた側である。どうも混線している。こうしてどちらなのか分からないようにわざわざ漱石が書いているのに、それをあたかも『坊ちゃん』は新政府寄りの小説であるかのように決めつける理由が解らない。私に言わせるとまさかあの江藤淳が、というところである。

 長年東工大で教壇に立っていながら、東工大の数学の猛者から何も指摘されなかったのか、とも思う。もしそんなものをねじ伏せるような権威があれば、そんなものをこそ江藤淳が忌み嫌っていた筈なのに。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?