江藤淳の漱石論について⑧ 「明治天皇奉悼之辞」
これは漱石の署名なく、「法学協会雑誌」に掲載された「明治天皇奉悼之辞」の孫引きである。この資料を確認するように江藤淳に指導したのは、三島由紀夫が死の一週間前の対談で「一番悪い奴」と指摘した小泉信三である。こうした資料をそのまま受け取ってしまったことも、江藤淳が夏目漱石をナショナリストと見做し、その考えを踏み固め続ける要素の一つであったと言えるかもしれない。
江藤淳が「明治天皇奉悼之辞」のことを小泉信三から指摘されたのは小泉の死の半年前とされているから、1966年(昭和41年)はじめか1965年(昭和40年)暮れのことかと推察できる。江藤淳が「夏目漱石論」を『三田文学』に発表したのは1955年、その約十年後に死の間際の小泉信三からわざわざこんなものでナショナリストとしての漱石を念押しされていたことになる。
この「明治天皇奉悼之辞」の原稿がいつ書かれたものかは定かではない。「大行天皇」は「通常」天皇が崩御したのち、まだ諡(おくりな)を奉らない間の尊称ではあるが、単に先帝の意味でも使われる。「殯宮の間に於ける天子様を、大行天皇と申上げて居る。」「屍を呼ぶ名であり、霊魂を名ざしての称へである。」と折口信夫は書いている。問題は最後の二行である。ここで先帝を「天皇」と呼んでしまっている。漱石の語彙では今上天皇はむしろ「天子様」である。大正天皇崩御の際には官報にさえ現れる「聖上天皇」の意識もないことも明らかである。「大行天皇」はある役割を果たした天皇であり、「聖上天皇」ではない。
当然漱石は天皇個人の死については悼む気持ちは有しており、御大喪の頃撮られた写真には喪章もあることから、夏目漱石は明治天皇を崇拝していたという誤解を抱く人がいても何ら不思議ではないが、夏目漱石を論じるものがこの程度の資料に目が眩んでしまうことが如何にも残念である。漱石は殿様の方が天皇より偉かったと講演で述べており、天皇の権威というものを明治政府の一機能としてしか認めていなかった。
「君これからどこかへ行くのかい」と話がそらされているのは、天皇が保証したからといって確かではないという合理的な判断である。漱石はキリスト教の現人神も信じない。(断片四A)
また、絶対的な人間というものも認めない。
漱石は、桓武天皇以前の天皇を認めない。一方では天皇を天子様と呼びながら、天孫とは認めないのだ。
この神は現代の神なので唯一絶対神ではなく、現代に誕生した神である。『永日小品』はまだ春とは言えぬ、時期に書かれた「小説」である。明治天皇の御印は「永」である。
日露戦争は明治天皇の開戦の詔によって始まった。この神の声は日本の運上より発せられ、満州に届いている。文章を正しく読むとは、例えばこの矢印、位置関係を無視しないことだ。つまりこの神は明治天皇である。(あるいは明治天皇に命じた天照大神である。)漱石は明治の四十年に尊敬すべき人物は一人としていないとも書いている。『京に着ける夕』でわざわざフューチャーする桓武天皇の生母は百済系の高野新笠である。
夏目漱石の天皇観は、三島由紀夫の天皇観同様解り難い。太宰治の『十五年間』にある「天皇陛下万歳!」が厭味な皮肉であり滑稽な洒落であるとすれば、三島由紀夫の「天皇陛下万歳!」は度が過ぎた皮肉であり笑えない大真面目である。太宰の「天皇」が個人であるのに対して、三島の「天皇」は個人ではなく、天照大神と直結した天孫である。森鴎外の「天皇」は血脈とは無縁の、決め事としての役割である。森鴎外の小説には養子が多く出て来る。家系図は三代も遡れば養子が出てきて血脈は途絶えることを重々理解したうえで、森鷗外は『帝諡考』『元号考』に向かう。
江藤淳は三島由紀夫よりも(昭和)天皇の方が「天皇」について考えていたと語るが、それは果たして正しいだろうか。つまりそのように比較が可能だろうか。それぞれの「天皇」がそもそも違うものなのに、比較することが可能であったり、意味があったりするものだろうか。天皇自身は、一般には公開されていない資料を読むことができ、秘事を見て体験することが可能なので、殯宮日供の儀に関して荷田春満より詳しいかもしれないが、平田篤胤は読まないだろうから、その儀礼の意味は知らないだろう。現在の上皇は小泉信三によって福沢諭吉の『皇室論』を叩き込まれた。その教育のバイアスから逃れて自由に思考することなどおそらく不可能だろう。比較は不可能、意味がないとしながら矛盾するようだが、そもそも最も「天皇」について自ら考えることを禁じられているのが天皇なのではなかろうか。
そのような意味で江藤淳の天皇観にもどこか自由さがない。「明治天皇奉悼之辞」で天皇の悪口を書くわけにはいかないのは当然。褒めている中身にはさして無理はなく、ある意味正直なところであろう。ただ小泉はこの「明治天皇奉悼之辞」と『こころ』を結びつけようとしたのだ。それを江藤淳は素直に受け取った。それには無理がある。三島由紀夫を右翼と見做す程度に無理があるのだ。
三島由紀夫にも夏目漱石にも保守的なところがあり、社会主義者のようなところもある。自分の主義を貫くことで他人からは色々に見えてしまうのだ。
電車事件とは1906年の「東京市電焼き討ち事件」を差すものと思われる。ここでは当時の明治政府の剣呑さが指摘されている。半藤一利も指摘している通り『坊ちゃん』では御一新は「瓦解」である。
「明治新政府だの、勲一等だのと威張っているヤツが東京にたくさんいるけど、あんなのはドロボウだ。7万4000石の長岡藩に無理やりケンカを仕掛けて、5万石を奪い取ってしまった。連中の言う尊皇だなんて、ドロボウの理屈さ」
と、半藤一利の祖母は語っていたという。
それでも時代進み、なんとか戦争も済んで、恐慌も起こったが、兎に角明治という時代は終わった。その感慨は「平成から令和に変わった」などという感覚とは比較にならないものであったろう。受け止め方はさまざまにせよ、夏目漱石もそこに無関心ではなかった。日記にはまるで新聞記事を書き写したかのような明治の終りに関する詳細な記録が残されている。天皇個人には哀悼の意はあり、崩御から登極の儀に至る式典や手続きには歴史の目撃者として深い関心があったというところまでは事実だが、喪に服すほどの忠義がなかったのも事実である。繰り返すが、夏目一家は明治天皇崩御の翌々日から鎌倉に泊りがけで海水浴に行くのだ。那須塩原への旅行は十七日からである。
江藤淳は『人と心と言葉』の中でこんなことを書いている。
桂太郎は元長州藩士、西園寺公望は公家の出である。私には江藤の言う「まさかあの『坊ちゃん』の作者が」という感覚が解らない。確かに「おれ」は「日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと」殴る。ちゃんちゃんを殴る「おれ」は明治政府かといえば、会津っぽの山嵐と共闘するのでいかにもらしくない。松山を不浄の地と呼ぶ「おれ」は江戸っ子なので、むしろ西軍に攻められた側である。どうも混線している。こうしてどちらなのか分からないようにわざわざ漱石が書いているのに、それをあたかも『坊ちゃん』は新政府寄りの小説であるかのように決めつける理由が解らない。私に言わせるとまさかあの江藤淳が、というところである。
長年東工大で教壇に立っていながら、東工大の数学の猛者から何も指摘されなかったのか、とも思う。もしそんなものをねじ伏せるような権威があれば、そんなものをこそ江藤淳が忌み嫌っていた筈なのに。
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