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三島由紀夫から見た夏目漱石の読者

三島 僕、読者については今度、森鴎外全集の解説で書いたが、森鴎外を支持している読者は山の手のインテリで、ドイツ的教養主義で、それで、そういうようなドイツ的教養主義を、非常に自分の人生の至上のあれにしていた山の手のインテリという、読者層がずっとあってね、それが森鴎外を支持してきたので、大変な尊敬だったよね。それが全部崩壊したらどうなるのかということを書いたのだ。そういう点から、読者層の研究は進んでいないよ。ただ僕は、とても面妖不可思議なのは、夏目漱石の読者だね。あれはいったいなんなんだ。ほんとうに不思議だね。中学生からおじいさんまで。
安部(公房) それがけっこう大きいんだな。
三島 大きいのだね、それが。きみ、それで、読者が多いから、漱石のほうが鴎外より偉いと思うかい?
安部 もちろん思わないよ。しかし、結果として文学史をつくっていくのは、やはり読者なんじゃないかな。

(「二十世紀の文学」『決定版三島由紀夫全集 第三十九巻』新潮社 2004年)

 三島由紀夫、安部公房だけではない。これまで見てきたように谷崎潤一郎も漱石の評価は低いし、太宰治に関しては「俗中の俗」と漱石を切り捨てている。三島由紀夫のこの発言も、夏目漱石というすでにこの世にない作家の死してなお消えない過剰な人気に対する反発の表れだ。

 しかも芥川龍之介までスタイルは鴎外に近接し、漱石文学から何を継承したのかということさえ曖昧なので困る。

 この三島由紀夫と安倍公房の対談は昭和四十一年のものだ。その後しばらくすると「通好みの鴎外、素人好みの漱石」などという言い方がされるようにもなった。その後夏目漱石ブームが繰りかえして起こり、次第に二人が比較されることも少なくなった。(この関係は大江健三郎と開高健、村上龍と村上春樹に似ていなくもない。)高校の国語の教科書に五十年以上採用されている夏目漱石の『こころ』が新潮社文庫で最大の売り上げを記録する等、現時点においては読者数という意味では漱石が鴎外に圧倒的な差をつけるとともに、研究者・論文の数、関連書籍で見ても漱石が圧倒していて、まさに「あれはいったいなんなんだ」という状況になっている。

 いや、三島由紀夫にしても谷崎潤一郎にしても、漱石作品をきちんと読めている訳ではない。それは小宮豊隆、吉本隆明、江藤淳、大岡昇平、蓮實重彦、柄谷行人にしても同じだ。それなのに何故か漱石を高く評価している。だから「あれはいったいなんなんだ」ということになる。

 三島由紀夫が指摘する「中学生からおじいさんまで」という点については基本的に謎である。これは芥川龍之介作品が比較的早く「ご卒業」されてしまう若者の文学と見做されていることと対比されるべきであろうか。勿論繰り返し述べているように芥川龍之介作品を全て正確に読んだ人は一人もいないだろうし、多くの人は「さすが」も「よき」も忘れてご卒業してしまっている。だから漱石作品の読者が「中学生からおじいさんまで」と広いことにもそんなに重きを置かなくともいいのかもしれないが、鴎外の読者が山の手のドイツ教養主義者に限定されるのに比べて、あまりにも大衆性を獲得しすぎじゃないかとは言える。

 しかも夏目漱石作品は本当はかなり複雑な仕掛けによって成り立っており、そう簡単に読めるような代物ではない。
 例えば『三四郎』一作で、確実に誰も解らないだろうというポイントが三つ、引っかかりどころが少なくとも105はある。

74 「目に触れるたびに不愉快な檜」 → 意味不明。
75 「檜に秋が来たのは珍しい」   → 意味不明。

 一番読まれている『こころ』など専門家でも物語構造が捉えきれていない。「私」の現時点での先生に対する全肯定が見えていない人が殆どだ。

 鴎外びいきの三島由紀夫の「どっちが偉い」という問いにはほぼ意味がない。高級低級の違いではなく、鴎外と漱石には方法論や作風に違いがあったというだけだ。それは開高健や村上龍にも言えることだ。ただし「読者の問題」として考えると「あれはいったいなんなんだ」と言いたくなる三島由紀夫の気持ちがよく分かる。

 確かに何かがおかしい。そしてこの対談は三島由紀夫の「絶対におれには無意識はない」という無茶な主張でお流れになる。そんなわけはないと安部公房は批判するが、三島は言い出したらきかない。三島は読者という混沌が気持ち悪いという。

 しかしこれは現実で、三島由紀夫に見えていなかったところまで確認して改めて夏目漱石作品の読者というものを考えると、確かに混沌とはしているが、気持ち悪いでは逃げられるようなことではない。

 これまで「読書メーター」や「goodreads」で国内外の夏目漱石の読者の声をかなり真剣に読み続けてきて言えることは、実際漱石作品は様々に解釈されつづけているということだ。




 それは村上春樹作品が意味や落ちを放棄して大量の読者を抱えたことと一部似ている。

 実際『明暗』の見合いの席順や、先ほどの『三四郎』の謎のように、恐らく正解を放棄したと思われるふりもある。

 しかし正解のあるパズルもある。

 ただこの違いがプロを自認する層に届かないことこそが夏目漱石の読者の最大の謎かもしれない。

 漱石人気の理由の一つとして挙げられる要素を最後にいくつか挙げておく。どれも理由の凡てではないが、一要素ではあるだろう。

・紅葉露伴、泉鏡花、そして谷崎潤一郎を含め、森鴎外も江戸以前の文学と切れ目なく続いている。しかし漱石には例えば井原西鶴の継承はない。『草枕』より後はそうした江戸以前の文学との連綿を断ち、西洋文学の血を入れた。つまり井原西鶴は読めないが漱石なら読める、『大鏡』は読めないが漱石なら読めるという層の支持は受けやすかった。

・流れが良かった。『吾輩は猫である』は発表当時から世間大評判となったが、そこには「機智とユーモア」の取り合わせ、帝大教師による滑稽小説と云う組み合わせの妙があった。

・作品群としては勢いがあって短くて読みやすい『坊っちゃん』、青春小説『三四郎』、ロマンスぽい『それから』、深刻小説『こころ』など多様な層に受け入れられやすいラインナップがそろっている。

・時代を反映させた。森鴎外の小説を読んでも明治大正の時代は分からないが、漱石の作品はほぼその書かれた時代を反映している風俗小説でもあった。書かれている当時は『なんとなく、クリスタル』的な要素もあり、次第に「明治大正の文学」として固定されていった。風俗小説から明治大正の時代小説に変化することで大衆性を獲得した。また社会と登場人物が関係しあうことで「社会的な問題」としても取り上げられやすいという妙な性質も獲得した。

・思考が先進的。例えば潜水艦や飛行機の発達を予測する等、作品に現れる漱石の思考はかなり先進的なものだ。「プログラム」という言葉の使い方、「五色の金」のアイデアなど現代でこそ通じるあたらしさというものが漱石作品にはある。


 ……まだまだ挙げられるが今日はこのくらいにしておこう。いくら理由を挙げても「あれはいったいなんなんだ」の答えが出るわけでもない。本当に三島由紀夫の云う通り、夏目漱石の読者というやつは不思議な生き物なのだ。



・あんたもそうだよ。



 なにがしたいねん?

これが現実。

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