芥川龍之介の『歯車』をどう読むか61 兼 芥川文学の本質② 喜劇作家芥川
たった今気が付いたことがある。
こんなことを書きながら、気が付いていなかった。
芥川の文芸の基礎が講談の速記本にあるとして、小説の元ネタそのものは『今昔物語』に始まることは否めないだろう。昭和二年になって書かれたと思われるこの『今昔物語に就いて』は、今になって『今昔物語』を人間喜劇として捉えなおすところに主眼が置かれていると読んでいいだろう。
つまり過去の振り返りをしているのではなく、今更捉えなおしているのだ。
過去形ではない。
そう気が付いてみてこそ『今昔物語に就いて』で書かれていることは聊か奇妙なのだ。例えば「野生の美しさ」は『羅生門』に当てはまるかもしれない。「人間喜劇」は『鼻』であろう。『歯車』には「野生の美しさ」というものがない。ただし、
超自然的存在を目擊し、その又超自然的存在に恐怖や尊敬を感じてゐたという意味においては、まさに『今昔物語』的世界の話でもある。いや、『歯車』こそが修羅、餓鬼、地獄、畜生等の世界が現実を侵食する最も超自然的小説であると言ってよいかもしれない。
何階段の上り下りでコック部屋入っとんねん。そらコックも驚くわ。そこは地獄やのうてコック部屋や。
……例えばそういちいち突っ込んでしまえば、これは人間喜劇なのではなかろうか。『羅生門』においても裸に剥かれた老婆を「いいざまだ」とからから笑えばいいのではなかろうか。
東京にレストランが一つしかないわけもない。なんならあいているレストランはいくらでもあるだろう。これは腹が減っているのにわざわざ定休日の店に行って喰いそびれるというボケなのではなかろうか。
あるいは『地獄変』娘が焼き殺されるというすさまじい設定に気をそらされるが、案外堀川の大殿の苦笑が落ちであり、そこは笑ってもいいのではなかろうか。
仮にそう考えてみた時、今更『今昔物語に就いて』で確認された人間喜劇という性質はデビュー当時から明確に言語化されないまでも芥川を惹き付けていたものであり、昭和二年になってなお芥川文学の核をなすもの、芥川の本來の面目でもあったのではなかろうか。
私はこれまで繰り返し『歯車』はまもなく自殺する精神異常者の単なる苦悩の告白などではありえないと主張してきた。そこを一歩進めて、喜劇作家芥川のスラップステックスの一つであると認めてよいように、たった今思いついた。そう書こうとして書いているうちに三十分くらい経過した。
時間の経過は早い。思考はどんどん進んでいるのに。
芥川が『今昔物語』の本來の面目をやっと発見したのが昭和二年。そんなことを私が書いているのが令和六年。この文章が誰かに届くのはいつのことであろうか。
「ふーん」の文学史はいつまで続くのだろうか。