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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する119 夏目漱石『こころ』をどう読むか496 まるであれじゃないか

私に取っては容易ならんこの一点

 私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。
 私がそう決心してから今日まで何年になるでしょう。私と妻とは元の通り仲好く暮して来ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は妻に対して非常に気の毒な気がします。

(夏目漱石『こころ』)

 これが何なのかきちんと説明できる人がいるだろうか。「ホモ疑惑」? もうそれはいいって。

日清戦争から此方、急に美少年趣味が盛んになって「ニセさん」だの「ヨカチゴ」だのと云う薩摩言葉が東京でも用いられるようになっていた。

 そもそも当時の日本では同性愛は「自分で自分を殺すべきだ」といった罪悪感を持つようなタブーではない。この時代感覚を無視して自分の思いこみだけで「解説」してしまうからみっともないことになる。現に今「キム〇は何回くらいやられたのか」「し〇ごはいくらなんでもタチだよな。いや、ママだからネコなのか、マヨちゅちゅってそういう意味が」とは騒がれない。そういった歌詞を全部同性愛に置き換えて解釈しようとする人はまだいない。そういうことはあってないようなものだと流される。
 この「私に取っては容易ならんこの一点」は、

「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ
「事実で差支えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」
 先生は笑い出した。あたかも時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風に。
「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」
 私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰まらなかった。

(夏目漱石『こころ』)

 この詰まらない答え、金を見ると悪人になるところ、その「人間なら誰でもそうだろう」という平凡な答えこそが私に取っては容易ならんこの一点なのだ。つまり先生は君子よりも高潔であろうとした?

 ロジック的にはそうなる。しかしここで言われているのは「事実なんですよ。理屈じゃないんだ」と言われている通り、ロジックではなく事実なので、繰り返し私が述べているところの、

「下さい、ぜひ下さい」といいました。「私の妻としてぜひ下さい」

(夏目漱石『こころ』)

 この事実が「金のための告白」だと言われていることになる。ごく一般的な意味で「お金が欲しい」というような感覚そのものは罪ではなかろう。しかし確かにこの事実を「金のための告白」と見た場合には先生はみっともないし、狡い。

 Kの死に際してまず遺書を確認したことや、その死因に関して誤魔化す態度を含めて、お嬢さんとの結婚に累が及ばないように配慮したとはいえ、そのお嬢さんが奥さんの財産との連携キーであることを考えると、確かに先生は金のために少し悪くなっている。

 昨日こんなことがあった。

 買い物をして帰ろうとすると「お客さん、忘れてませんか」と店員さんが九千円渡そうとする。今はやりの自動精算機で誰かが忘れたのだろう。見回すと他にそれらしい客はいない。私は「違いますよ」と即答する前に、確かに辺りを見回した。そして「現金?」と訊いた。「現金」と店員は答えた。「違います」と私はようやく答えた。そして足早に店を出ながら心の中で「あぶないあぶない」と呟いた。こんな小銭で人生を棒に振ってはたまらない。たかが九千円で。と冷汗をかいた。たとえ九千円でも泥棒は泥棒だ。

 そして考えた。「ああ、すみません」と九千円を受け取っていたら、それから一週間ははらはらして、結局お金を返しに行くんだろうなと。しかしこれが嫁と財産なら返しようがないなと。そりゃ、ずっと嫌な感じになるだろうなと。


私は妻に対して非常に気の毒な気がします

 

 しかし漱石が真面目な話をしながら冗談を混ぜて來る作家であることも確かなのだ。この冗談は勿論、

「子供はいつまで経ったってできっこないよ」と先生がいった。
 奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。

(夏目漱石『こころ』)

 ここに繋がり、「天罰とか言っていないで夜のお勤めをきちんとしろよ」という突っ込みを待っている。先生と静の夫婦関係は半年ばかり何もない津田由雄とお延の関係に似ているが、どうも津田由雄とお延に初夜らしきものがあるのに対して、先生と静の間にはその気配が見えない。その点もはっきり掴めていれば確かにここには冗談がある。

またぐたりとなります

 死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言で直ぐぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります

(夏目漱石『こころ』)

 これまで見てきたようにそもそも「ホモ疑惑」そのものは漱石が仕掛けたもので、「ふり」であるとして、漱石がこんなところでも悪戯を仕掛けているところを見るとむしろ誤読を誘っているかのようでさえある。
 この書きようはあくまでも抽象的乍ら、どうにも男性器の怒張と萎えのように映る。これは『行人』にも見られた、

 兄は谷一つ隔てて向うに寝ていた。これは身体が寝ているよりも本当に精神が寝ているように思われた。そうしてその寝ている精神を、ぐにゃぐにゃした例の青大将が筋違いに頭から足の先まで巻き詰めているごとく感じた。自分の想像にはその青大将が時々熱くなったり冷たくなったりした。それからその巻きようが緩くなったり、緊くなったりした。兄の顔色は青大将の熱度の変ずるたびに、それからその絡みつく強さの変ずるたびに、変った。

(夏目漱石『行人』)

 この女性器を思わせる表現と対になるものであろう。このような表現の中で漱石はないことを書くことが出来る。

 なんだか『こころ』を暗い話にしたい人とゲイの話にしたい人と、訳が分からないなりに持ち上げたい人しか見つからないので、こういうところも指摘してみる。



[余談]

 七十五歳の爺さんが今更村上春樹の『ノルウェイの森』を読んで、「ノルウェイのお話かと思ったら恋愛小説だった」「酒は飲むは女とSEXはするは不良学生と思える」「学生が複数の女性とSEXする話、芥川賞を受賞した小説にあったな」「最近こんな小説が多いのだろうか」と感想を書いていて笑ってしまった。1987年の小説を最近と呼ぶのはさすがに冗談かと思えばそうでもないらしい。それにしても36年前なのだ。 

 それにしても小説とはこんな読み方をされてしまうのかと感心した。

 それでなくてはベストセラーにならないわけだが。

 夏目漱石作品も大方こんな風に読まれてしまっているのだろう。




 違うんだけどなんか惜しい。


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