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谷崎潤一郎の『憎念』を読む 悪魔の本性の告白?



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 いまさらこの私が「谷崎潤一郎はサディズム作家でもある」と書いたところで、誰も真面には受けとらないだろうとは思う。この私が、という意味もなかなか伝わりにくいとは思う。それはつまり「この俺様が」でも「私如きが」でもないということを、理解してくれる人にしかこのことは伝わらないだろう。

 繰り返し書いているように書く資格そのものは、まさに書かれているそのものにおいて保証されうるものであり、それ以外の装飾は「おためごかしの張ったり」に過ぎない。

 沼正三という稀代のマゾヒストの第一人者がそうであったように、谷崎潤一郎=マゾヒスト、マゾヒズム作家という固定観念から逃れられない人が殆どだろう。イメージというのはなかなかやっかいだ。イメージはどこまでも付きまとう。谷崎は最終的にマゾヒズム作家というイメージで売ったため、そうではない谷崎を捉えにくくさせている。私は谷崎潤一郎を単なるサディズム作家だとは考えていない。そういう一面もあり、そうでないものも描くことが出来て、尚且つそれが自身の逃れられない性癖として滲み出ているとは思えないと考えている。また同様に谷崎潤一郎はユーモア・コント作家でもあると書いたところで、誰も真面には受けとらないだろうとは思う。谷崎潤一郎=悪魔的な作家という固定観念から逃れられない人が殆どだろう。私は谷崎潤一郎を単なる悪魔的な作家だとは考えていない。

 谷崎潤一郎は確かに悪を描いた。それは夏目漱石が真善美を求め『坊つちゃん』の「おれ」のような者のふるまいにも善を見つけて欲しいと書いたこととは全く別の方向性ではある。

 この『憎念』の作中にも「悪魔の本性」という言葉が現れ、奉公人をいじめる「私」が描かれる。このことから、この『憎念』という作品は人をいじめる話だと言ってもよいだろう。
 しかしどうも奇妙な心理が描かれる。「私」は最初、安太郎が大好きだった。

「何と云ふ醜い、汚ならしい、鼻の孔だらう-」そんな考へが、ふと私の頭に浮かびました。さうして、彼の鼻柱が苦痛の表情に連れていろいろなひしやげた形に變化するのを、默つてまぢまぢと視詰めて居ました。「人間の顏には、どうして鼻の孔なんぞが附いて居るのだらう。あの孔がなかつたら、人間の顏はもう少し綺麗だつたらう。……」子供心にも、私はおぼろげにこんな意味の不滿足を抱きました。
二人の喧嘩は間もなく女中の仲裁に依つて鎭まりましたが、私は其の後幾日立つても、例の鼻の孔の恰好を忘れる事が出來ませんでした。飯を喰ふ時にはキツと其の恰好が眼先へちらちらして氣持ちを惡くさせました。をかしな事には、そんなに嫌ひでありながら私は矢つ張り時々安太郞の傍へ行つて、密かに願の下の方から鼻つきを窺つて見ないと、氣の濟まない事があるのです。「お前はほんとに卑しい奴だ。醜惡な人間だ。醜惡な人間だ。其の無恰好な鼻を見ろ。」安太郞の前へ出ると、私は必ず腹の底で斯う呟きました。今迄あれ程仲の好かつた間柄でも、一旦鼻の事を想ひ出すと、唯譯もなく彼が憎らしくて溜らないやうになりました。(谷崎潤一郎『憎念』)

 安太郎は手代の善兵衛に殴りつけられ、その鼻の孔の形を見せることで憎しみの対象となる。この理屈は全く解らないではない。幸田文のエッセイに、象の飼育員が転んだら象に襲われた、これは象が「崩れ」を嫌ったからではないかというものがあったように記憶している。これとは少し違うが打落水狗、という韓国的な感覚もある。人はたとえ不当に穢された者であろうとも、その穢れを完全に無視することが出来ないものだ。随分前のことだが満員電車で隣の席の老婆からゲロを吐き掛けられた美しい御嬢さんがいた。御嬢さんは「大丈夫ですか」と老婆にハンカチを差し出した。私はこのお嬢さんを嫁に貰いたいくらいに惚れたが、二人の周囲には相当なスペースが出来ていた。

 なるほど鼻の孔かと解ったつもりになると、谷崎はまた妙なことを書きはじめる。

今迄あれ程睦じかつたのが、急に反感を持ち始めて、聞くも恐ろしい害意を抱くやうになつたのには何か知ら原因がある筈です。けれども子供の私は一切夢中で、深くも其の理由を反省する餘裕がありませんでした。唯其の時の自分の氣持ちだけは、未だにハツキリ覺えて居ます。私の安太郞に對する惡感は、殆んど不可抗的の心理作用で、普通の一毛嫌ひ」とか「忌憚」とか云ふものよりもつと深い、もつと根本的な氣持ちでした。ですから、「憎惡一と云ふ淺薄な言葉を以て、その感情を形容するのは或は不適當かも知れません。例へて見るとわれわれが食事の最中に或る汚穢な事物を想像する時、何とも云へない、嘔吐を催すやうな不愉快を覺える事があるでせう?-丁度あの氣持ちに似て居るのです。安太郞の顏を眺めて居ると、あの通りな氣分に襲はれて、口の中に生唾液が溜つて來るのです。いかなる點から云つても、私は安太郞を憎む可き道理を發見しないのです。彼は惡人になつた譯でもありません。(谷崎潤一郎『憎念』)

 いや、だから鼻の孔なんだろう、そう書いたじゃないかと文句を言いたくもなるが、これはいつか見た景色だ。『飇風』で直彦が女に惚れたきっかけも下から見た鼻の形だった。


 直彦は二十四歳の年の暮れに宴会の崩れから無理強いに引き立てられて吉原の大籬の敷居を跨いだ。泥酔の勢いを借りて貞節を破り、女の鼻の孔を下から覗き込んで不気味なところがあると思った。二度三度と通ううち直彦はその女の小鼻の格好に惹かれる。しかし小鼻も鼻の孔も掘り下げられない。女の魅力は外見ではなく手練手管にシフトする。
 この『憎念』でも、鼻の孔はあっさり捨てられる。

畢竟、私が彼を憎み始めたのは今迄の「私」以外の、あの微妙な要素が私の心に生れ出た結果であらうと推測されます。語を換へて云へば、一種のフリュウリングス·エルワッヘンが變則な形式で私の體に到來したのです。(谷崎潤一郎『憎念』)

 この微妙な要素は結びでこう明かされる。

「戀愛」と同じく「憎惡」の感情は、道德上や利害上の原因よりも、もつと深い所から湧いて來るのだと思ひます。私は性慾の發動を覺えるまで、ほんたうに人を憎むと云ふ事を知りませんでした。(谷崎潤一郎『憎念』)

 つまり「フリュウリングス·エルワッヘン≒性慾の發動」という理屈になるだろうか。わざと曖昧に示したものを、最後にカチッと表現するあたりは見事な作法であるが、ここで気が付くことがある。「私」の性慾の發動はまず小僧の安太郎に対して起こり、次第にその対象を女中という異性にシフトする。これはまるで『こころ』の先生の「恋に上のぼる楷段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」という「ホモ階段説」ではないか。 


 ただし、その後が書かれていないことからどうも理屈の坐りが悪い。大学を出た今日では、人を憎んでもそれを行為に現すことができないとされている。「悪魔の本性」を持ちながら、「憎み」という感情が好きで、人を憎むのが愉快だというこの作品は、ふと気が付けば「ですます」口調の、あたかもエッセイのような雰囲気の小説になっている。

 まるで谷崎が自身の「悪魔の本性」を告白しているかのように読めるのである。いや、これではとてもマゾヒズム作家とは呼べまい。谷崎は相手が男であれ、女であれ、憎み、いじめることが好きで好きでしょうがなくて、その自分の倒錯的嗜好を吐露せずにはいられないのだとしたら、谷崎潤一郎はサディズム作家ということになる。
 しかし作家は基本大噓つきである。嘘に嘘を重ねて物語を構築する。「自分の倒錯的嗜好を吐露せずにはいられない」のはザッヘル・マゾッホや沼正三、あるいは「奇譚クラブ」に投稿していた人々で、私は谷崎潤一郎にそうではないものを見て居る。
 谷崎は明らかに嗜虐嗜好性を両側から描いている。レーオポルト・フォン・ザッハー=マーゾッホは片側だけである。ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サドは両側どころか、いくつもの性的倒錯を書いており、例えば『ソドムの百二十日』では「便所のツボのように口の臭う老婆」に対する嗜好も書いている。そして実際に両側を実行して投獄されている。マゾッホは片側だけ実行した。谷崎潤一郎は、コプロラグニーという奇妙な楽園も描いているが、この『憎念』では「汚穢な事物」をあっさり拒否しており含蓄がない。「自分の倒錯的嗜好を吐露せずにはいられない」のであれば、「粉飾」(デコレーション)まで行くべきではないか。ト〇ーズのけ〇は奥さんのパ〇ツについたう〇この臭いを嗅ぐのが好きだと発言していた。「自分の倒錯的嗜好を吐露せずにはいられない」のであれば、むしろ『憎念』は後期作品と全く方向性が異なるので書かれる筈がない作品である。
 こう言ってしまっては実もふたもないが洟のついた手巾をしゃぶらせて汚いと言われはしたものの、「悪魔的」というキャラクターが立ったので、そっちの路線でやってみました、というのが真相ではなかろうか。いや、本当に身もふたもない。
 鼻の孔を捨て続けることで逆にこだわりを仄めかしているところまでは解る。それがどこに行きつくのかが、まだ解らない。




【余談①】『憎念』の言葉たち

尾籠 びろう きたないこと。けがらわしいこと。これを「おこ」と読ませるとおろかなこと。ばかげたこと。ばか。烏滸。 枇榔 蒲葵、枇榔、檳榔は、ヤシ科の常緑高木。漢名は蒲葵、別名はホキ(蒲葵の音)、クバ(沖縄県)など。古名はアヂマサ。

憎體 憎らしい有様。 憎々しいさま。 にくて。 ② 「にくていぐち(憎体口)」の略。

駒下駄 材木をくりぬいて台も歯もいっしょに作った下駄。

毬栗頭

素晴らしい悲鳴 ひどい、とんでもない。

矢鱈無上 ただもうむやみであるさま。 めったやたら。
大兵肥満 体が大きくたくましく太っている事。
大槻 伝蔵

小栗美作 おぐりみまさか

フリューリング・エルワッヘン(春のめざめ)

FrühlingsErwachen

『Frühlings Erwachen』(副題:子供の悲劇)は、1891年に発表されたフランク・ヴェーデキントの社会批評風刺劇である。この劇は、思春期とそれに伴う性的好奇心の中で、大人側の心理的不安定と社会的不寛容の問題に直面する数人の青年の物語である。初演は1906年11月20日、ベルリン・カンマーシュピーレでマックス・ラインハートとヘルマン・バー(無名)の演出によって行われた。

菎蒻 こんにゃく 蒟蒻  この字は尾崎士郎、泉鏡花が使う。
天神机

謀計 ぼうけい はかりごと




【余談②】

夏目漱石も『坊つちゃん』だけ。芥川も『羅生門』だけ。幸田露伴も太宰治も収載なし。ん…。


高いよー。



シェイクスピアは誰ですか?



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