よく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ
二十八章にあったこんな馬鹿々々しい会話は、案外真面目なものかもしれない。
人間の体には様々な菌が共生している。どんなにご立派でご清潔でも完全体というわけにはいかない。病名がつくかつかないかは別にしてどこか偏っているものだ。余裕がないと病気にならないかどうかは別にして、余り閑だと病気になるかもしれない。
逆に満身創痍の漱石は「なんでおれはこう病気ばかりするのかな」と本気で考えていたことだろう。そこで昨日の主体とか意識とか人格の話になる。
人格とは言うけれど、事故でもなければ人の生き死には病気で決まり、病気は自分の意思ではないのなら、自分を支配しているものは自分ではなくて別の何か得体のしれないものなのではないかと。
かつて『それから』では腹の中の無数の皴から情調を受けたり、意識の下からふわっと浮かび上がってくるものを捉えたりしていた。『明暗』ではそうした生理的なものではないところで、人格と云うものを考えようとしているように思う。
何か形而上学的な、と云っても良い。
まだほかにも大事にしている人があるんです
ここでどうやらお秀が清子のことを知っていることが解る。これが百二章の終わりのところである。ここで一旦話を中断し、次回に期待させるというあざといやり方だ。
何があざといかと言えば「しかもその怖がるのは――」と言いさしにして、津田が恐れているのは清子という元カノがいたことがお延にばれることだけではないとだけ印象付けて、その先を言わないからだ。
何かそれ以上のこと、を読者に考えさせようとする。
・しかもその怖がるのは――嫂さんを悲しませるからではありません。
・しかもその怖がるのは――嫂さんを失いたくないからではありません。
・しかもその怖がるのは――嫂さんを怒らせたくないからではありません。
大体この辺りまでは予測できる。この先が解らない。
・大事にしている人が男だからです。
・大事にしている人が流産したからです。
・大事にしている人が人妻だからです。
・大事にしている人が嫂さんより美人だからです。
これでは月並みだ。おそらくその先には何か仕掛けがあったのだろう。このふりを落としていない続編には意味がない。早速書き直した方がいい。
玄関へかかったのはその三四分前であった
ここは漱石が割と俗にドラマを撮っているところ。このシーンは現代でも通用し得る。「しばらくそれから眼を放す事ができなかった。彼女は猛烈にそれを見た」の「しばらく」のところに俗気がある。それで三四分前なのかと感心して、ようやく診療時間外の設定なので「ただ一足の女下駄」というものが成立するのかと改めて感心するところ。
これは『こころ』の先生が下宿に戻ってきて、Kの部屋からお嬢さんの笑い声が聞こえて、……という場面を思い出してもらえば、たまたまではなく本物の作家の技巧が見えるところだ。
え?
忘れた?
ここだよ。
この状況が成立するために間取りと草履がある。夏目漱石はそういう工夫のできる人だ。たまたまではない。
若い女であるかないかも訊いた
ここは来客が秀子であると解っている読者でさえ怖いところ。妙に緊張感を出してくる。というのもこれは前振りで、やはり清子と津田が温泉旅館で逢っていたら怖い人ランキング断トツ一位はやはりお延ということになるだろうか。
小林や探偵、関や秀子なんかお延に比べれば何でもない。夫の浮気現場に容貌の劣者たるお延が現れて美しい清子を見てしまったら、そりゃ恐ろしいぞと、漱石が読者を脅している。
彼女は一倍猛烈に耳を傾けた
なるほど津田とお秀の会話はお延に聴かれていたわけだ。そしてふと思い出してみれば、津田由雄は妻に知られたくないことが書いてある手紙を燃やすような男であり、お延は夫の手紙をこっそり読む女なのだ。そして一倍猛烈に耳を傾けて盗み聞きをする女だ。
さて。
そう気が付いてみると、そもそも津田一人を温泉に行かせて、その間吉川夫人に大人しく「教育」されているものだろうか。
つまりそもそも津田一人を温泉に行かせたのは、お延の罠だったのではなかろうか。
何しろこの時点で物凄く津田の浮気を疑っている。小林の仄めかしによつて、どうしても「若い女」と敵の存在を仮装しなくてはならなくなったからだ。少し先の所の、津田が一人で温泉に行くよ、という下りを再確認してみると、百四十八章ではこんなことが言われている。
うん。違うな。まだお延は津田が本当に湯治に行くと思っている。
こうなるとその思い込みそのものがふりになるので、必ず挫かれなければならない。
その段取りとして吉川夫人の何気ない失言から感づくか、それともやはり小林がいきなりやってきて、「そうですか温泉に行ったんですか。一人で?」「一人でとはどういう意味ですか」「いえ、深い意味はありません」なんてことを言って仄めかすのか、やり方はいろいろあろうが、やはりかなり仕掛けは整っていることが解る。
つまりお延が温泉に行かない続編には意味がないと言っていいだろう。お延が温泉に行かない続編を書いてしまった人、まあそんな人はいないと思うが、もしいたとしたら急いで書き直した方がいい。
その後を聴かなければ気がすまなかった
デイヴィッド・ロッヂの『小説の技巧』には載っていないレトリックに、「怪獣が襲ってくると足弱さんが転ぶ」というものがある。映画などでは必ず逃げる時、誰かが転びハラハラさせる決まりになっている。これがイライラになる場合もある。「肝腎のところで邪魔が入る」というレトリックである。「キスしようとすると誰かが部屋に入ってくる」みたいな話だ。要するに話がつるんとストレートに進んでしまうと面白くないので、そういう役割が必要なのだ。
つまりお延は止むにやまれず青白い顔をして病室に入って来なくてはならなかったとされているわけだが、読者の大半は「あと少しだけ待てよ」と思った筈なのである。しかしそんなにお延を責めないで欲しい。彼女も好きでそうしたわけではないのだ。ただ漱石にやらされただけなのだ。
漱石ももしかしたらこの時点で『明暗』が最後の作品になるかもしれないと意識していたのかもしれない。そしてまるで書き終えることを拒むように設定が積み上げられていく。この話はもう少し長くなる、という客観的な見立てと、この話はもう少し長くしたいという作家の願いに、お延はただ黙って従っただけなのだ。
お延に人格や自由意志があるわけではない。
無理な微笑を湛えて津田を見た
なんでも「ふーん」の人たちに、ここの下りは理解できているものだろうか。
まず「彼の不安」と「彼の安堵」。これはそれぞれお延に話を聴かれてしまったかもしれないという不安と、お秀に肝心なところを言わせなかったという安堵であろう。
で「しかしそれは秘密であった」とは「或物を疑っても差支えないという証左」の「或物」が夫の浮気であり、夫に可愛がられていると周囲に思わせたいというお延の見栄のためにそれを秘密にしなくてはならないということだ。
そして「夫の他の半面に応ずるのを、ここへ来た刻下の目的としなければならなかった」とは安堵した夫に対して、お秀に肝心なところを言わせないようにしないといけないので、さも「嫂さんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」問う台詞は聞いていないと思わせるために「無理な微笑を湛えて津田を見た」ということになる。
この津田とお延の演技をナレーションなしで顔だけで伝えられる役者さんっているのかな。さらに言えば「お秀にはお延が自分を出し抜いて、津田と黙契を取り換わせているように取れた」というお秀の演技、これが表情だけで伝えられるものだろうか。「何で今頃来るわけ」でもなく「この女がすべて悪いのよ」でもなく「何二人して黙約してんのよ」の顔が出来る女優さんなんていないだろう。ただ厭な顔しかできない筈だ。しかし小説では演技指導無しで人物を操ることができる。それが字の魅力だ。
[付記]
今回の範囲では注解そのものに何か引っかかるのは、「畳付」くらいだろうか。岩波はこれを、「藺や藤などの表をつけた下駄や草履」としている。
たとえば「御贔屓勧進帳」という話に畳下駄が出て來る。舞台は越前。畳下駄は地方のもの、九州、栃木、津、福山、網走などにはあったようだ。東京には「ない」とは悪魔の証明である。
しかし延が小林医院で見たのは畳下駄ではなく畳草履であろう。