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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する182 夏目漱石『明暗』をどう読むか31ホイホイの罠ではなかったが罠として機能するかも

よく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ

「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現に私なんか近頃ちっとも寝た事がありません。私考えるに、人間は金が無いと病気にゃ罹らないもんだろうと思います」
 津田は馬鹿馬鹿しくなった。
「つまらない事をいうなよ」
「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」
 この不論理な断案は、云い手が真面目なだけに、津田をなお失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。
「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」
 薄暗くなった室の中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電灯のスウィッチを捩った。

(夏目漱石『明暗』)

 二十八章にあったこんな馬鹿々々しい会話は、案外真面目なものかもしれない。

 人間の体には様々な菌が共生している。どんなにご立派でご清潔でも完全体というわけにはいかない。病名がつくかつかないかは別にしてどこか偏っているものだ。余裕がないと病気にならないかどうかは別にして、余り閑だと病気になるかもしれない。

 逆に満身創痍の漱石は「なんでおれはこう病気ばかりするのかな」と本気で考えていたことだろう。そこで昨日の主体とか意識とか人格の話になる。

 人格とは言うけれど、事故でもなければ人の生き死には病気で決まり、病気は自分の意思ではないのなら、自分を支配しているものは自分ではなくて別の何か得体のしれないものなのではないかと。

 かつて『それから』では腹の中の無数の皴から情調を受けたり、意識の下からふわっと浮かび上がってくるものを捉えたりしていた。『明暗』ではそうした生理的なものではないところで、人格と云うものを考えようとしているように思う。

 何か形而上学的な、と云っても良い。

まだほかにも大事にしている人があるんです

「そう私を軽蔑なさるなら、御注意までに申します。しかしよござんすか」
「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」
「あなたが兄さんらしくないからです」
「黙れ」
「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんは嫂さんに自由にされています。お父さんや、お母さんや、私などよりも嫂さんを大事にしています」
「妹より妻を大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ」
「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」
「何だ」
「それだから兄さんは嫂さんを怖がるのです。しかもその怖がるのは――」
 お秀がこう云いかけた時、病室の襖がすうと開いた。そうして蒼白い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。

(夏目漱石『明暗』)

 ここでどうやらお秀が清子のことを知っていることが解る。これが百二章の終わりのところである。ここで一旦話を中断し、次回に期待させるというあざといやり方だ。
 何があざといかと言えば「しかもその怖がるのは――」と言いさしにして、津田が恐れているのは清子という元カノがいたことがお延にばれることだけではないとだけ印象付けて、その先を言わないからだ。

 何かそれ以上のこと、を読者に考えさせようとする。

・しかもその怖がるのは――嫂さんを悲しませるからではありません。
・しかもその怖がるのは――嫂さんを失いたくないからではありません。
・しかもその怖がるのは――嫂さんを怒らせたくないからではありません。

 大体この辺りまでは予測できる。この先が解らない。

・大事にしている人が男だからです。
・大事にしている人が流産したからです。
・大事にしている人が人妻だからです。
・大事にしている人が嫂さんより美人だからです。

 これでは月並みだ。おそらくその先には何か仕掛けがあったのだろう。このふりを落としていない続編には意味がない。早速書き直した方がいい。


玄関へかかったのはその三四分前であった

 彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜を計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静な扉ドアーを開けて内へ入る事ができたのである。
 実際彼女は三四日前に来た時のように、編上だの畳つきだのという雑然たる穿物を、一足も沓脱の上に見出ださなかった。患者の影は無論の事であった。時間外という考えを少しも頭の中に入れていなかった彼女には、それがいかにも不思議であったくらい四囲は寂寞していた。
 彼女はその森とした玄関の沓脱の上に、行儀よく揃えられたただ一足の女下駄を認めた。価段から云っても看護婦などの穿きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心を躍らせた。下駄はまさしく若い婦人のものであった。小林から受けた疑念で胸がいっぱいになっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事ができなかった。彼女は猛烈にそれを見た。

(夏目漱石『明暗』)

 ここは漱石が割と俗にドラマを撮っているところ。このシーンは現代でも通用し得る。「しばらくそれから眼を放す事ができなかった。彼女は猛烈にそれを見た」の「しばらく」のところに俗気がある。それで三四分前なのかと感心して、ようやく診療時間外の設定なので「ただ一足の女下駄」というものが成立するのかと改めて感心するところ。

 これは『こころ』の先生が下宿に戻ってきて、Kの部屋からお嬢さんの笑い声が聞こえて、……という場面を思い出してもらえば、たまたまではなく本物の作家の技巧が見えるところだ。

 え?

 忘れた?

 ここだよ。

 たしか十月の中頃と思います。私は寝坊をした結果、日本服のまま急いで学校へ出た事があります。穿物も編上げなどを結んでいる時間が惜しいので、草履を突っかけたなり飛び出したのです。その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰るはずになっていました。私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子をがらりと開けたのです。するといないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私はいつものように手数のかかる靴を穿いていないから、すぐ玄関に上がって仕切りの襖を開けました。私は例の通り机の前に坐っているKを見ました。しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。私はあたかもKの室から逃のがれ出るように去るその後姿をちらりと認めただけでした。私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。私が自分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。その時お嬢さんは始めてお帰りといって私に挨拶をしました。私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるような捌けた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だったのです。お嬢さんはすぐ座を立って縁側伝えんがわづたいに向うへ行ってしまいました。しかしKの室の前に立ち留まって、二言三言内と外とで話をしていました。それは先刻の続きらしかったのですが、前を聞かない私にはまるで解りませんでした。

(夏目漱石『こころ』)

 この状況が成立するために間取りと草履がある。夏目漱石はそういう工夫のできる人だ。たまたまではない。

若い女であるかないかも訊いた

 右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、誰何でもする人のような表情を彼女の上に注いだ。彼女はすぐ津田への来客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかも訊いた。それからわざと取次を断って、ひとりで階子段の下まで来た。そうして上を見上げた

(夏目漱石『明暗』)

 ここは来客が秀子であると解っている読者でさえ怖いところ。妙に緊張感を出してくる。というのもこれは前振りで、やはり清子と津田が温泉旅館で逢っていたら怖い人ランキング断トツ一位はやはりお延ということになるだろうか。

 小林や探偵、関や秀子なんかお延に比べれば何でもない。夫の浮気現場に容貌の劣者たるお延が現れて美しい清子を見てしまったら、そりゃ恐ろしいぞと、漱石が読者を脅している。

彼女は一倍猛烈に耳を傾けた

 上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、淀みなく往ったり来たり流れているのとはだいぶ趣を異にしていた。そこには強い感情があった。亢奮があった。しかもそれを抑えつけようとする努力の痕がありありと聞こえた。他聞を憚るとしか受取れないその談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。下駄を見つめた時より以上の猛烈さがそこに現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾けた。
 津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段を上ってすぐ取っつきが壁で、その右手がまた四畳半の小さい部屋になっているので、この部屋の前を廊下伝いに通り越さなければ、津田の寝ている所へは出られなかった。したがってお延の聴こうとする談話は、聴くに都合の好くない見当、すなわち彼女の後の方から洩れて来るのであった。
 彼女はそっと階子段を上った。柔婉やかな体格をもった彼女の足音は猫のように静かであった。そうして猫と同じような成効をもって酬いられた。
 上り口の一方には、落ちない用心に、一間ほどの手欄が拵えてあった。お延はそれに倚って、津田の様子を窺った。するとたちまち鋭いお秀の声が彼女の耳に入いった。ことに嫂さんがという特殊な言葉が際立って鼓膜に響いた。みごとに予期の外れた彼女は、またはっと思わせられた。硬い緊張が弛む暇なく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口から抛げつけられる嫂さんというその言葉が、どんな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました

(夏目漱石『明暗』)

 なるほど津田とお秀の会話はお延に聴かれていたわけだ。そしてふと思い出してみれば、津田由雄は妻に知られたくないことが書いてある手紙を燃やすような男であり、お延は夫の手紙をこっそり読む女なのだ。そして一倍猛烈に耳を傾けて盗み聞きをする女だ。

 さて。

 そう気が付いてみると、そもそも津田一人を温泉に行かせて、その間吉川夫人に大人しく「教育」されているものだろうか。

 つまりそもそも津田一人を温泉に行かせたのは、お延の罠だったのではなかろうか。

 何しろこの時点で物凄く津田の浮気を疑っている。小林の仄めかしによつて、どうしても「若い女」と敵の存在を仮装しなくてはならなくなったからだ。少し先の所の、津田が一人で温泉に行くよ、という下りを再確認してみると、百四十八章ではこんなことが言われている。

「じゃ本当を云いましょう。実は小林さんから詳しい話をみんな聴いてしまったんです。だから隠したってもう駄目よ。あなたもずいぶんひどい方かたね」
 彼女の云いい草ぐさはほとんどでたらめに近かった。けれどもそれを口にする気持からいうと、全くの真剣沙汰と何の異なるところはなかった。彼女は熱を籠こめた語気で、津田を「ひどい方かた」と呼ばなければならなかった。
 反響はすぐ夫の上に来た。津田はこのでたらめの前に退避ぐ気色を見せた。お秀の所で遣り損なった苦い経験にも懲こりず、また同じ冒険を試みたお延の度胸は酬いられそうになった。彼女は一躍して進んだ。
「なぜこうならない前に、打ち明けて下さらなかったんです」
「こうならない前」という言葉は曖昧であった。津田はその意味を捕捉するに苦しんだ。肝心のお延にはなお解らなかった。だから訊かれても説明しなかった。津田はただぼんやりと念を押した。
「まさか温泉へ行く事をいうんじゃあるまいね。それが不都合だと云うんなら、やめても構わないが」
 お延は意外な顔をした。

(夏目漱石『明暗』)

 うん。違うな。まだお延は津田が本当に湯治に行くと思っている。

 こうなるとその思い込みそのものがふりになるので、必ず挫かれなければならない。

 その段取りとして吉川夫人の何気ない失言から感づくか、それともやはり小林がいきなりやってきて、「そうですか温泉に行ったんですか。一人で?」「一人でとはどういう意味ですか」「いえ、深い意味はありません」なんてことを言って仄めかすのか、やり方はいろいろあろうが、やはりかなり仕掛けは整っていることが解る。

 つまりお延が温泉に行かない続編には意味がないと言っていいだろう。お延が温泉に行かない続編を書いてしまった人、まあそんな人はいないと思うが、もしいたとしたら急いで書き直した方がいい。

その後を聴かなければ気がすまなかった

 二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに喧嘩をしていた。その喧嘩の渦中には、知らない間に、自分が引き込まれていた。あるいは自分がこの喧嘩の主おもな原因かも分らなかった。
 しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉は霰のように忙がしかった。後から後から落ちてくる単語の意味を、一粒ずつ拾って吟味している閑などはとうていなかった。「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへとそこに佇立んでいる彼女の耳朶を叩きに来るだけであった。
 彼女は事件が分明になるまでじっと動かずに立っていようかと考えた。するとその時お秀の口から最後の砲撃のように出た「兄さんは嫂さんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」という句が、突然彼女の心を震わせた。際立って明暸に聞こえたこの一句ほどお延にとって大切なものはなかった。同時にこの一句ほど彼女にとって不明暸なものもなかった。後を聞かなければ、それだけで独立した役にはとても立てられなかった。お延はどんな犠牲を払っても、その後を聴かなければ気がすまなかった。しかしその後はまたどうしても聴いていられなかった。先刻から一言葉ごとに一調子ずつ高まって来た二人の遣取りは、ここで絶頂に達したものと見傚すよりほかに途はなかった。もう一歩も先へ進めない極端まで来ていた。もし強いて先へ出ようとすれば、どっちかで手を出さなければならなかった。したがってお延は不体裁を防ぐ緩和剤として、どうしても病室へ入らなければならなかった。

(夏目漱石『明暗』)

 デイヴィッド・ロッヂの『小説の技巧』には載っていないレトリックに、「怪獣が襲ってくると足弱さんが転ぶ」というものがある。映画などでは必ず逃げる時、誰かが転びハラハラさせる決まりになっている。これがイライラになる場合もある。「肝腎のところで邪魔が入る」というレトリックである。「キスしようとすると誰かが部屋に入ってくる」みたいな話だ。要するに話がつるんとストレートに進んでしまうと面白くないので、そういう役割が必要なのだ。

 つまりお延は止むにやまれず青白い顔をして病室に入って来なくてはならなかったとされているわけだが、読者の大半は「あと少しだけ待てよ」と思った筈なのである。しかしそんなにお延を責めないで欲しい。彼女も好きでそうしたわけではないのだ。ただ漱石にやらされただけなのだ。

 漱石ももしかしたらこの時点で『明暗』が最後の作品になるかもしれないと意識していたのかもしれない。そしてまるで書き終えることを拒むように設定が積み上げられていく。この話はもう少し長くなる、という客観的な見立てと、この話はもう少し長くしたいという作家の願いに、お延はただ黙って従っただけなのだ。

 お延に人格や自由意志があるわけではない。

無理な微笑を湛えて津田を見た

 二人ははたしてぴたりと黙った。しかし暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行を止められた時の沈黙は、けっして平和の象徴ではなかった。不自然に抑えつけられた無言の瞬間にはむしろ物凄い或物が潜んでいた。
 二人の位置関係から云って、最初にお延を見たものは津田であった。南向の縁側の方を枕にして寝ている彼の眼に、反対の側から入って来たお延の姿が一番早く映るのは順序であった。その刹那に彼は二つのものをお延に握られた。一つは彼の不安であった。一つは彼の安堵であった。困ったという心持と、助かったという心持が、包み蔵す余裕のないうちに、一度に彼の顔に出た。そうしてそれが突然入って来たお延の予期とぴたりと一致した。彼女はこの時夫の面上に現われた表情の一部分から、或物を疑っても差支えないという証左を、永く心の中に掴んだ。しかしそれは秘密であった。とっさの場合、彼女はただ夫の他の半面に応ずるのを、ここへ来た刻下の目的としなければならなかった。彼女は蒼白い頬に無理な微笑を湛えて津田を見た。そうしてそれがちょうどお秀のふり返るのと同時に起った所作だったので、お秀にはお延が自分を出し抜いて、津田と黙契を取り換わせているように取れた。薄赤い血潮が覚えずお秀の頬に上った。

(夏目漱石『明暗』)

 なんでも「ふーん」の人たちに、ここの下りは理解できているものだろうか。

 まず「彼の不安」と「彼の安堵」。これはそれぞれお延に話を聴かれてしまったかもしれないという不安と、お秀に肝心なところを言わせなかったという安堵であろう。

 で「しかしそれは秘密であった」とは「或物を疑っても差支えないという証左」の「或物」が夫の浮気であり、夫に可愛がられていると周囲に思わせたいというお延の見栄のためにそれを秘密にしなくてはならないということだ。

 そして「夫の他の半面に応ずるのを、ここへ来た刻下の目的としなければならなかった」とは安堵した夫に対して、お秀に肝心なところを言わせないようにしないといけないので、さも「嫂さんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」問う台詞は聞いていないと思わせるために「無理な微笑を湛えて津田を見た」ということになる。

 この津田とお延の演技をナレーションなしで顔だけで伝えられる役者さんっているのかな。さらに言えば「お秀にはお延が自分を出し抜いて、津田と黙契を取り換わせているように取れた」というお秀の演技、これが表情だけで伝えられるものだろうか。「何で今頃来るわけ」でもなく「この女がすべて悪いのよ」でもなく「何二人して黙約してんのよ」の顔が出来る女優さんなんていないだろう。ただ厭な顔しかできない筈だ。しかし小説では演技指導無しで人物を操ることができる。それが字の魅力だ。


[付記]

 今回の範囲では注解そのものに何か引っかかるのは、「畳付」くらいだろうか。岩波はこれを、「藺や藤などの表をつけた下駄や草履」としている。

民間服飾誌 履物篇 宮本勢助 著雄山閣 1933年


新東京探見 時事新報社 編広文堂 1925年


姉妹 柳川春葉 (専之) 著今古堂 1911年

 たとえば「御贔屓勧進帳」という話に畳下駄が出て來る。舞台は越前。畳下駄は地方のもの、九州、栃木、津、福山、網走などにはあったようだ。東京には「ない」とは悪魔の証明である。

 しかし延が小林医院で見たのは畳下駄ではなく畳草履であろう。


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