それにしては随分余裕がありますね 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか⑥
昨日は玄道の嘘を一つ突き止めた。これは案外重要なことだ。嘘つきは嘘をごまかすために嘘を重ねるものだ。嘘というのは言わばフィクションであり、記憶にはないことなので、頭が良くないと積み上げられない。本当のことなら見たままを語ればいいからそんなに頭が良くなくても語りうる。しかし嘘を語り続けるには、破綻なくフィクションを構成する創造性と積み上げてきた嘘を記憶する能力が必要になる。一番の嘘つきは小説家である。
なんということなしに漱石の『こころ』の先生の葛藤を思い起こさせるところである。自分は地震の時、梁の下敷きになった女房を殺してしまった。それも生きたまま焼かれるのが不憫だから殺したつもりながら、どこかで最初から女房を殺すつもりでいて、たまたま地震という機会をとらえて殺してしまったようにも思えて良心の呵責に耐えない。自分はこんな人間なので再婚する資格はないものと思う……。こんなことをさらっと言ってきたら逆にそいつは本当のサイコパスだ。
川上未映子の小説にはたまに箍の外れた人間が出てくる。それに比べれば芥川の小説に出てくる人間の方がお行儀がいい?
しかし中村玄道が嘘つきである可能性を考えると、少なくとも百瀬の方が正直ではあると評価できなくもない。実践倫理学的には「社会というものを前提にしないと生きていけない人間としての根本的なものが欠けている」としても自分が自分だけを贔屓するのは当然であり、決して相手の立場に立って考えることはできないという人間が一定数存在することもまた確かだからだ。
現にこのnoteでも運営やクリエイターのことなどどうでもよくて、ただ無料記事だけを読んでいる人が殆どではあるまいか。そんな人が百瀬を批判できるものであろうか。自分がされては嫌なことは他人にもしてはいけないというようなルールは決して守られていないのが現実なのではなかろうか。ただそこをあからさまに言わないで、さも道徳的にふるまっているように見せている人間がいたとしたら、そんな人が一番怖い。
随分前の事になるがスーパーでチャーシューの試食販売をやっていたら外国人の家族が試食台を取り囲んで根こそぎ食べていた。流石に引いた。しかし、そういうことがnoteでは平然と行われていないだろうか。
さて、ここにも中村玄道の小さな嘘が隠れているような気がする。「小心な私」? はて、いざとなれば女房を一撃で叩き殺すことの出来る男が「小心な私」? 結局何の稽古か解らぬが出稽古の家庭教師ができる男が「小心な私」? 稽古が柔道でも剣道でも胆力がなくては師範代までは進めまい。なのに「小心な私」?
他人の家に夜、案内も請わずに入ってきて「小心な私」?
それにやはり気になるのはナラテイブだ。「目前に迫ったではございませんか。」はやはり講談の語りで、扇子をペペンペンペンと打つところ。何を話を盛り上げようとしているのかと、冷静に読めば違和感のあるところ。逆に話に引き込まれていると気が付くまい。
どうも言い訳がましい。
まるで自分には何の責任もないような言い方だ。
全部周りのせいにしている。
どうせ姑息な男なのだから意気地のない姑息手段を使えばいいのではないかと思う。機械的にスキを押して何か小遣い稼ぎでもできないものかと考えているような人には一生解らないだろうが、姑息な人間というものは周囲から「あいつは姑息な奴だ」とはっきり知られているものだ。
広辞苑に「その場のがれ」と書かれている。まさに中村玄道のこの二年間は姑息なものでしかなかった。ごくシンプルな話、医者にかかり、「先生、私は病気ではありません。実は先の地震の時、梁の下敷きになった女房を殺してしまったんです。それも生きたまま焼かれるのが不憫だから殺したつもりながら、どこかで最初から女房を殺すつもりでいて、たまたま地震という機会をとらえて殺してしまったようにも思えて良心の呵責に耐えません。ですから再婚話が進む中鬱々と苦しんでいるのです」と正直に話したとしたら、普通の医者ならば、「なるほど。いつからそうおもうようになりました?」と質問するだろう。
自分は殺人者かもしれないという幻想を持つ人は一定数存在する。勿論深刻な症状として現れれば神経衰弱と診断され、病気を理由に結婚は延期されたであろう。
師範学校を首席で卒業したのであれば、それくらいの常識はあったはずだ。このようなやり方で芥川は中村玄道という男をどんどん怪しくさせていく。
え? 金?
お金が欲しいの?
教員として高給貰っているとか言ってたよね。
それなのにまだ金が欲しいの?
それより肉体的に欠陥のあった小夜とできなかったことをしたい方が先じゃないのかね?
それに財産とか言っているけれど婿に入るの?
長女はどうなっている?
幼いにしろ惣領息子はいるわけだよね。それもまた殺すつもりなの?
それからやはり気になるのは「それから錦襴の帯、はこせこの銀鎖、白襟と順を追って、鼈甲の櫛笄が重そうに光っている高島田が眼にはいった時」って、ぎりぎりのところに追い詰められて煩悶している人間の語りではないよね。
そういうものが目に入らないのが追い詰められた人間じゃないのかな。例えば電車でうんこが漏れそうなときに「それから錦襴の帯、はこせこの銀鎖、白襟と順を追って、鼈甲の櫛笄が重そうに光っている高島田が眼にはいった時」ってなるかね。ならないよね。ただひたすら神に祈るよね。神様お願いです。もし間に合えば、ずっといい子でいますって。「仄かな波の空に松と鶴とが霞んでいる裾模様が見えました」って本当に冷静な人にしか言えないよね。
やはり中村玄道は講談師じゃないの、と思ったところで今日はここまで。
[附記]
芥川だから下手な文章は書けない、ということでは決してない。
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