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江藤淳の自死について 瞬間的に発作を起こして 

 『中央公論特別編集 江藤淳 1960』に四方田犬彦は「江藤淳の飼い犬はその後どうなったのか」という文章を寄せている。さすが犬彦だ。犬のことが気にかかるのだろう。猫彦ならそんなことは考えないだろう。猿彦もそんなことは考えないだろう。犬彦ならではの視点である。

 事実とすればどうやら、長い入院の間家を空けていたため、犬の性格が変わり主人を噛むようになったため、自殺のしばらく前に手放したというのが真相のようだ。犬を手放さなければ自殺はなかったのでははないかと犬彦は考える。

 犬彦によれば夫人の死後、江藤淳は西洋料理の外食ばかりしていたらしい。犬彦だけに「吉本隆明のように、ご飯にネギとカツオブシをブッかけてくっていりゃあ大丈夫、というところが少しでもあったらなあと、思うのである」と書いているが、犬にネギは禁物である。

 加藤典洋の引く遺書はこうである。

 心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。

 最後のこれを諒(りょう)とせられよ、とは「もっともだと思って認めてくれ」という意味である。自ら処決の準備として、犬の始末もあったのかと思いきや、流石に稀代の文芸評論家はそう単純には片付かない。とても諒とせられよでは片付かないのだ。

 福田和也は江藤淳の一番好きな谷崎潤一郎論が書かれず、『一族再会』『近代以前』が中断し、『漱石とその時代』で「小さく見える漱石」が書かれなかったことを惜しむ。

 石原慎太郎は「江藤は評論家になるしかなかった」の中でこんなことを述べている。

 幼いときに母親を亡くし、奥さんにも先立たれたこともあって、江藤には女性に対する強い思慕があったと思う。

 この枕に続いて石原は自分が江藤にお手伝いさんを紹介したら、喜んで感謝の手紙が届いた。正式に住み込みで働くことになったお手伝いさんは一旦実家に必要なものを取りに戻り、七月二十一日の午後、帰ってくる予定だった。ところがその日は東京から湘南地方にかけては凄い嵐で、お手伝いさんは予定の時間に帰れなかった。…と語る。

 江藤はそれをどう受け取ったのか、瞬間的に発作を起こして、風呂場で手首を切って死んでしまったんだ。お手伝いさんが約束の時間に四、五時間遅れて家に帰ったら、どうも様子が違うので風呂場まで行ったら、そこで江藤が死んでいたんだよ。(中略)その女性がもう帰ってこないと思い込み、突き放されたような孤独になったんじゃないかと思うな。

 この石原の指摘は、「崇拝の対象となっている漱石に我慢がならなかったのだ」と夏目漱石論を書いた江藤淳の偶像を破壊する。漱石の番人と呼ばれた小宮豊隆らの漱石論に対して、あるいはエゴイズムの問題から発して和辻哲郎が拵えた倫理学に対して、江藤淳は「結果として」嚙みついたことになるのだろう。

 人間が「節操」を守るために生きているという観念がどれほど傲慢なものであるか。自分もよく救えぬものが、どうして他人に「善」を説けるか。人生がそれほど単純なものであり、人間が自己の行為に完全な責任をとり得るほど道徳的に無謬だという神話を、私は少しも信じていない。(『批評家とは何か』江藤淳)

 もし石原の推測がわずかに外れていたのなら、そして江藤が風呂場で裸であったなら、江藤淳はやがて来るかもしれないお手伝いさんにおちんちんを見せつけようとした疑いがある。江藤淳はわが身を挺して、自説を強弁したに過ぎないのではなかろうか。残念ながら江藤淳もまた夏目漱石を論じるに値する基本的な読みの水準に達していたとはみなし難い。石原はその死を哀れと嘆くが、私はその夏目漱石論が、読解力不足から小さく閉じていることを嘆く。私は相当に無茶をすれば生前の江藤淳に自分の漱石論を読んで貰うことが可能だったのではないかと考えている。私がそれなりに名のある文学賞を受けたのは1999年以前のことであり、この時点で私の読みの水準は現在と大差ないと考えられる。1999年には何とか間に合ったのではないかとつい計算してしまう。もちろん、1999年時点で私は漱石論を書いていない。しかし書くことは十分可能だった。間に合わなかった、という悔いがある。吉本隆明も死に、やがて柄谷行人もむにゃむにゃむにゃ。小森陽一、高橋源一郎、奥泉光、石原千秋には間に合うのだろうか。


 この本が。









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