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芥川龍之介の『三つの窓』をどう読むか③ 近代文学を愛する人への冒涜は断じて容認できない

 だからってどうするのだろう。断じて容認できなかったらどうするのだろうと思う。これほど軽く使われている言葉は他にあるまい。それはもうほとんど容認しているということだ。

二万噸の××

 この『三つの窓』の各章が「一等戦闘艦××」で始められていることに言及しないことは断じて容認できない。これは「一等戦闘艦××」の話なのだ。

 昭和二年の一等戦闘艦といえば富士、朝日、敷島……いや、それにしても「二万噸の××」とはいささかおでぶさん過ぎるのではなかろうか。富士、朝日、敷島……これ等は精々一万五千トン、無論戦艦大和のような六万五千トンという戦闘艦がないわけではないが、芥川はまだ戦艦大和を見ていない。

 その巨大な「一等戦闘艦××」は、「彼」と呼ばれる。「××はいつの間にか彼自身を見離していた。」「彼の生涯は少くとも喜びや苦しみを嘗め尽していた」といった彼は、容易く芥川自身に重ねられかねないところを、「二万噸の××」と書いているところが芥川の意地なのであろう。

 芥川の体重は当時、

 室生犀星の長男の豹太郎が死んだときに、芥川夫人がお悔みにゆくと室生夫人が、「わたしたちお互ひにおでぶちやんは……、」と言つたといふ。それで芥川夫人は家に歸つて、「わたしはおでぶちやんぢやないわ……」と言つてゐたといふが、室生夫人は子供に死なれた悲しみで一貫目痩せて十八貫、芥川夫人は十六貫、と十二貫五百の芥川は笑つて聞かせてた。

二つの繪
芥川龍之介の囘想
小穴隆一


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 豹太郎が亡くなったのは大正十一年、ここからニ三キロは痩せていただろう。それで「二万噸の××」と書くところが人の悪い芥川らしさだ。


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 これでは寿陵余子、にょろにょろ君じゃなくてガリガリ君じゃないか。


それはしろということか

「いえ、家内と二人暮らしであります。」
「子供はないのか?」
「はい。」

(芥川龍之介『三つの窓』)

 こう問われた後、Sは家の近くにある店でクラッカアを買ってくるように命じられる。

 それは久々に抑えきれない欲望を発露せよとの命令に聞こえなくもない。


家康もの

海戦の前夜にK中尉に「昔、木村重成は……」などと言い、特に叮嚀に剃っていた顋を。……

(芥川龍之介『三つの窓』)

 言葉というものは一つ所に一文字ずつしか書けないので、案外ひとつらなりのことしか伝えられず、それ以外のことを無視してしまう。そしてついつい書き忘れてしまう。思いだしたから書こう。

 例えば『古千屋』には「浅野但馬守長晟」の家来として「関宗兵衛、寺川左馬助」なる人物の名前が現れる。

 となると芥川はやはり、

直之の首級 家康、二條城に在り、四月晦日、淺野但馬守長晟の家臣關宗兵衞、寺川左馬助の二人、來りて、樫井の戰捷を報じ、且、塙團右衞門直之、淡輪六郞兵衞重政等の首級を獻ず


日本史蹟大系 第13巻
熊田葦城 著平凡社 1936年

 という事実を知りつつ、「直之の首は一つ首でもあり」と書いたのであり、吉田精一は「淡輪六郞兵衞重政等の首級を獻ず」と記録にあるのを知らなかったのだろうと推察できる。

 またここに現れる「木村重成」も家康に首実検された一人で、

首実検でその首級が家康に届けられると、重成の首は、月代を剃って髪が整えられ、伽羅の香りさえ漂っているのを見た家康が、その死地に臨む武将としての嗜みの深さを誉めたとされる。

ウィキペディア「木村重成」

 そういう意味では『三つの窓』は『古千屋』同様「家康もの」と呼ぶべき作品であるかもしれないのだ。

国史叢書


甚だ薫じければ

彼は煙突の中に垂れた一すじの鎖に縊死していた。が、彼の水兵服は勿論、皮や肉も焼け落ちたために下っているのは骸骨だけだった。

(芥川龍之介『三つの窓』)

 木村重成が香を薫じれば、下士は煙突にくびれて自らを薫じた。このくらいのブラックジョークを認めないものは断じて容認することができない。


夏目先生の霊前に獻ず 

君看双眼色
不語似無愁

(芥川龍之介『三つの窓』)

 K中尉の書いたこの良寛の句は芥川自身が好んでよく口ずさみ、また書いていたことがよく知られていよう。


羅生門 芥川竜之介 著阿蘭陀書房 1917年

 1917年、つまり大正六年の『羅生門』、芥川龍之介という作家の本格的なスタート地点の扉にこの句は貼り付けられていた。

羅生門 芥川竜之介 著阿蘭陀書房 1917年

 この一冊は夏目漱石に獻じられた。芥川龍之介作品のほぼ最後の位置にある『三つの窓』にこの句があることも単なる偶然ではなかろう。

 ある意味ではこの作もまた夏目漱石に獻じられたのだ。それを窓が一つしかないとかなんとか……。


 


[余談]

ゴルフボールで車体に傷をつけることがゴルフを愛する人たちへの冒涜であるなら、傷つけられた車体の立場がない。ここに筒井康隆くらいの言語センスは認められなくはないけれど、別に認めなくとも良いだろう。

言うか。

あほんだら。


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