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夏目漱石の『こころ』をどう読むか③ 「真砂町事件」と「蒟蒻閻魔」

「真砂町事件」と「蒟蒻閻魔」

 真砂町事件と蒟蒻閻魔について理解できている人も見当たりません。全部調べるという訳にはいきませんが、調べた範囲では見つかりません。解説しますと威張っている人も気が付いていません。先生は死ぬまでこの恨みを消せないので、ここは把握していないと駄目なのです。これも「現代文B」の範囲外だからかもしれません。しかし『こころ』という作品を読んで感想文を書くのに、この辺りが理解できていないと流石に駄目だと思います。内輪話で書いてしまえば、マドンナに袖にされるうらなり君に自分を重ねたり、清子を「反逆者」呼ばわりする程度に漱石の大塚楠緒子にふられた恨みがあらわれたところと見ていいと思いますが、どこからどういう被害妄想が湧き出ているのかは確認する必要があります。

 東京を自在に歩くことのできる人でなければ、この話はグーグル・マップなどを見ながら読んで貰った方が良いと思います。まず東京大学の位置、それから蒟蒻閻魔(源覚寺)、真砂町、小石川といった位置関係を確認してみてください。今とは多少道路の位置がズレますが、渋谷などに比べればそのまま残っている建物が比較的多い地域なので、今の地図で見てもそう大きな勘違いにはならないと思います。『こころ』には源覚寺という文字は現れません。蒟蒻閻魔と書かれるだけなので、この辺りに住んでいる人以外には解り難い表現になってしまっています。

「なぜそんなに眠いんでしょう。きっと神経衰弱なんでしょう」
「何ですか」
「本当にむやみに怒る方かたね。あれでよく学校が勤まるのね」
「なに学校じゃおとなしいんですって」
「じゃなお悪るいわ。まるで蒟蒻閻魔ね」
「なぜ?」
「なぜでも蒟蒻閻魔なの。だって蒟蒻閻魔のようじゃありませんか」
「ただ怒るばかりじゃないのよ。人が右と云えば左、左と云えば右で、何でも人の言う通りにした事がない、――そりゃ強情ですよ」
「天探女でしょう。叔父さんはあれが道楽なのよ。だから何かさせようと思ったら、うらを云うと、こっちの思い通りになるのよ。こないだ蝙蝠傘を買ってもらう時にも、いらない、いらないって、わざと云ったら、いらない事があるものかって、すぐ買って下すったの」
「ホホホホ旨いのね。わたしもこれからそうしよう」(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 この蒟蒻閻魔の意味を乱暴に「内弁慶」にしてしまう辞書がありますが、それは違います。『吾輩は猫である』の作中では「頑固な天邪鬼」の意味で使われています。所謂「漱石」と同じ意味です。そこに怒りんぼが加わるので本当に漱石です。眼病にご利益があると言われる点では『三四郎』に出てくる蛸薬師に繋がります。眼球から色彩を出す『それから』の代助や、ザ・アイという漱石の綽名を思い出したところで一旦忘れてください。『こころ』の作中では蒟蒻閻魔は通学路を表しています。閻魔様と言えば人の生前の罪を裁く神です。罪ある者は睨まれて困る相手で、避けて通りたい相手です。

 真砂町も漱石作品に繰り返し現れる地名です。蒟蒻閻魔がやや高い位置、真砂町は低い位置にあります。東大から真砂町を通って小石川に向かう道はやや遠回りになり上り坂になります。

 真砂町事件の全貌はこう語られます。

 私はふと賑やかな所へ行きたくなったのです。雨はやっと歇ったようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のため、蛇の目を肩に担いで、砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下おりました。その時分はまだ道路の改正ができない頃なので、坂の勾配が今よりもずっと急でした。道幅も狭くて、ああ真直ではなかったのです。その上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がっているのと、放水がよくないのとで、往来はどろどろでした。ことに細い石橋を渡って柳町の通りへ出る間が非道かったのです。足駄でも長靴でもむやみに歩く訳にはゆきません。誰でも路の真中に自然と細長く泥が掻き分けられた所を、後生大事に辿って行かなければならないのです。その幅は僅か一、二尺しかないのですから、手もなく往来に敷いてある帯の上を踏んで向うへ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になってそろそろ通り抜けます。私はこの細帯の上で、はたりとKに出合いました。足の方にばかり気を取られていた私は、彼と向き合うまで、彼の存在にまるで気が付かずにいたのです。私は不意に自分の前が塞がったので偶然眼を上げた時、始めてそこに立っているKを認めたのです。私はKにどこへ行ったのかと聞きました。Kはちょっとそこまでといったぎりでした。彼の答えはいつもの通りふんという調子でした。Kと私は細い帯の上で身体を替わせました。するとKのすぐ後ろに一人の若い女が立っているのが見えました。近眼の私には、今までそれがよく分らなかったのですが、Kをやり越した後で、その女の顔を見ると、それが宅うちのお嬢さんだったので、私は少なからず驚きました。お嬢さんは心持薄赤い顔をして、私に挨拶をしました。その時分の束髪は今と違って廂が出ていないのです、そうして頭の真中に蛇のようにぐるぐる巻きつけてあったものです。私はぼんやりお嬢さんの頭を見ていましたが、次の瞬間に、どっちか路を譲らなければならないのだという事に気が付きました。私は思い切ってどろどろの中へ片足踏ん込みました。そうして比較的通りやすい所を空けて、お嬢さんを渡してやりました。
 それから柳町の通りへ出た私はどこへ行って好いか自分にも分らなくなりました。どこへ行っても面白くないような心持がするのです。私は飛泥の上がるのも構わずに、糠海の中を自暴にどしどし歩きました。それから直ぐ宅へ帰って来ました。(夏目漱石『こころ』)

 これだけのことです。Kは真砂町で偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明し、お嬢さんはどこへ行ったか中ててみろと揶揄います。御嬢さんの頭の上に黒い蛇が載っています。この蛇によつて先生は蒟蒻閻魔になります。先生はこの時の嫉妬を死ぬまで持ち続けます。この真砂町事件の前に、なかなかきわどい場面があります。

 奥さんは黙って室の真中に立っている私を見て、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、日本服を着せてくれたりしました。(夏目漱石『こころ』)

 Kの部屋の火鉢に火があり、自分の部屋の火鉢に火がないので不愉快になってぼうっとしている先生を、奥さんが下着姿にしているのです。ちらりと股間を見ている理屈になります。書かれてはいませんが、そういうことになるでしょう。大抵女の人はちらりと見ますね。


 

   普通下宿先の未亡人は若い男の着替えまでは手伝いませんよ。もしお嬢さんがKの着替えを手伝っていたらどうですかね。そんなことをちらりと想像させますね。漱石作品はとにかく対ですから、先生の世話を奥さんがしたのなら、Kの世話はお嬢さんがしたことになります。漱石はお嬢さんがKの褌をじっと見たとは書きません。書きませんが猿股一つで済まして皆の前に立っている西洋人を書きましたね。猿股が水に濡れればすけすけですよ。透けてなくても褌をじっと見れば形が解ります。漱石はどうもわざと奥さんに先生の着替えを手伝わせています。もう一度よく考えてくださいね。唯の下宿人を未亡人が下着姿にしますかね。それはエロティックというところに落とし込まなくてもいい話です。何れ未亡人は婿に看護されます。



 しかし先生がこの真砂町事件の嫉妬心を生涯消す事ができない意味を理解できない人が殆どなのではないでしょうか。

 もしお嬢さんがKの着替えを手伝い、蒟蒻閻魔を避けてわざわざ水掃けの悪い道を二度通り、頭に黒い蛇を乗せていたなら、お嬢さんにはきっと罪があります。先生は生涯そのジャッジが出来ません。閻魔様にはなれません。なかなか頑固です。漱石ですから。まず「真砂町で偶然出会ったから連れ立って帰って来た」という説明が嘘でありお嬢さんか奥さんに言わされたことか何かだとは解かりますね。火鉢に炭を入れるのは女の仕事です。御嬢さんか奥さんがやる事です。Kはお嬢さんか奥さんに火を入れて貰ったのは確かです。そうなると奥さんに頼まれてか、お嬢さんに誘われて表に出たことも確かでしょう。「奥さんは大方用事でもできたのだろうといっていました。」という記述がありますが、よく考えてくださいね。文無しで友人もいないKの用事って何ですかね。精々学校に忘れ物をしたくらいではないですかね。

 私は真砂町事件でKとお嬢さんがセックスしていたとは思いません。然し先生は真砂町事件の嫉妬を生涯消せません。

 ここは不自然ではないでしょうか。結婚して何年も経って、真砂町事件が事件になりますか? 結婚前に女房が誰かとデートしたとして、結婚すればそんなことはチャラでしょう。

 しかし先生はそこをどうしても「なかったこと」には出来ないのです。漱石はここに明確な疑惑を残していてるのです。だから蒟蒻閻魔の先生の嫉妬心は消えません。擬制家族にKを招き入れ、追い出した頑固な天邪鬼は真砂町事件を忘れません。

 この人は名前を出していません。ペンネームにせよ、出すべきではないでしょうか。書いている範囲で概ね正しく読めています。特にこの記事の追い込み方は秀逸です。

1.先生は、義母が死亡した頃に同性愛の肉欲(“恐ろしい影”、“物凄い閃き”)を自覚した。鎌倉に来ていたのは西洋人相手に性欲を満たすため。
2.先生にとってKは唯一永遠の恋人であり私には関心がない。遺書は私へのラブレターではなく反面教師として役立ててもらうもの。
であるため、この二点に関しては不正確ですが、全体としては同性愛者(ホモセクシュアル)が主人公である意味を的確に考察しています。

 この「物凄い閃き」の部分を読み返すと、なるほどと感心する人もいるでしょう。

 妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧な返事をしておきました。妻は自分の過去を振り返って眺ながめているようでしたが、やがて微かすかな溜息ためいきを洩もらしました。私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。初めはそれが偶然外から襲って来るのです。私は驚きました。私はぞっとしました。しかししばらくしている中に、私の心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ぐってみました。けれども私は医者にも誰にも診てもらう気にはなりませんでした。
 私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。
 私がそう決心してから今日まで何年になるでしょう。私と妻とは元の通り仲好く暮して来ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は妻に対して非常に気の毒な気がします。(『こころ』夏目漱石)

 この「私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点」を先生のホモセクシャルだとする考えには強く反対しません。しかし「私」が言う「人間を愛しうる人」であり「抱きしめることのできない人」の定義からは外れますね。またホモセクシャルだから義母の看護が出来る訳でもなく、ホモセクシャルだから鞭打たれなければならないという理屈もまだ明治の終わりにはなかったでしょう。「私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点」が『明暗』の「男と男が結ばれる成仏」と結びつけば、これはホモセクシャルでもいいことになります。問題は先生がタチかネコかヘテロかということくらいでしょうか。「私」による先生に対する全肯定、人類愛者であるかのような理解は誤解だということになります。

 はい。しかしそれは「妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧な返事をしておきました。」の意味を取り違えた解釈です。先生は若い時からお嬢さんにプラトニックな愛を持っていました。肉の欲は若い時から無いのです。この会話のうちに「男女では駄目」→「男同士ならうまくいく」と読めば私のもっている一点はホモセクシャルでも良さそうですが、事実先生は若い時からお嬢さんに対する信仰に近いプラトニックな愛を持っていたので、Kを先生の唯一の恋人とするのはどうでしょうか。プラトニックな愛の対象は女性で、肉欲の対象が男性?

 ここは整理が必要でしょう。

 確かに津田とお延の関係は曖昧です。したようでしたようてないようで。津田と小林は怪しいです。津田の痔瘻は小林が原因かと強く疑われます。先生が「私」の淋しさの根っこを引き抜いてやれないのは、ホモセクシャルであっても方向性が合わないからでしょうか。

 むしろ私のもっている一点は「先天性勃起不全」ではないかと疑った方が良いかもしれません。子沢山な漱石ですが晩年の病歴から勃起不全がかなり疑われます。しかし一応『明暗』では初夜があるのです。プラトニックラブで「先天性勃起不全」の先生が、静の股間に栓をしているKの黒い影を見ているのではないかと思います。













 



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