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読み誤る漱石論者たち 阿刀田高① 『坊っちゃん』はそう単純な話ではない。

 それにしてもどうしてこうも沢山の人が漱石について語ろうとするのだろうか。そしてことごとく漱石作品を読み誤るのは何故なのだろうか。そんな近代文学2.0の根本的な問題を改めて考えさせてくれるのが阿刀田高の『漱石を知っていますか』(新潮社、2017年)だ。

 谷崎潤一郎作品に関しても阿刀田高の読みは迂闊であり、凡庸で型通り、しかも話を作るために読み誤っていた。丁寧にストーリーを追いながら、何の疑問をも挟まない。今回もその駄目なパターンに堕ちている。
 例えば、

 兄は仕事の都合で家を売って九州に行ってしまう。坊っちゃんのまわりには両親のいたころからのねえやの清がいるばかり。(阿刀田高『漱石を知っていますか』新潮社、2017年)

  これも校閲が這入っていないのだろうか?しかし作家のわがままを許していては出版社の信頼度は下がるばかりだ。

 兄はそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々の瓦落多を二束三文に売った。家屋敷はある人の周旋である金満家に譲った。この方は大分金になったようだが、詳しい事は一向知らぬ。おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の小川町へ下宿していた。清は十何年居たうちが人手に渡るのを大いに残念がったが、自分のものでないから、仕様がなかった。あなたがもう少し年をとっていらっしゃれば、ここがご相続が出来ますものをとしきりに口説いていた。もう少し年をとって相続が出来るものなら、今でも相続が出来るはずだ。婆さんは何なんにも知らないから年さえ取れば兄の家がもらえると信じている。
 兄とおれはかように分れたが、困ったのは清の行く先である。兄は無論連れて行ける身分でなし、清も兄の尻にくっ付いて九州下んだりまで出掛ける気は毛頭なし、と云ってこの時のおれは四畳半の安下宿に籠もって、それすらもいざとなれば直ちに引き払はらわねばならぬ始末だ。どうする事も出来ん。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 兄と別れる時点で、家を売り払う前から、「おれ」と清は別居している。清は「ねえや」ではなく下女である。「ねえや」では若い召使いの女と云う意味になるが清は老婢である。「だから婆さんである」とはっきり書かれている。「ねえや」では清の絶対的な母性や、「おれ」の清に対する思いが捻じれてしまうので、ここは注意が必要だ。案の定、阿刀田高は「清の愛情は恋に近い」とまで書いてしまう。これは余りにも酷い読み誤りだ。

 すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めている。自分の力でおれを製造して誇ってるように見える。少々気味がわるかった。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 これはあたかも清が実母であるかのような仄めかしだ。漱石自身が実母をお婆さんと勘違いしていたこともあり、実際には実母から与えられなかった愛情を代わりに「おれ」に与えていると見てよいだろうか。

 坊っちゃんは江戸っ子で、無鉄砲。学校の二階から飛び降りたり、西洋のナイフの切れ味を誇って自分の親指を疵つけたり……喧嘩だって半端じゃない。(阿刀田高『漱石を知っていますか』新潮社、2017年)

 江戸っ子だから無鉄砲と云う理屈はない。「親譲りの無鉄砲」とされているだけだ。作中江戸っ子の性質としては野だの芸人風のふるまい、「おれ」の華奢に小作りという体格として現れるほかに、確かに負け惜しみの強さ、軽佻なふるまい、喧嘩っ早さと「無鉄砲」的性質に結び付けられているが、仮にも『坊っちゃん』を論じようとして「親譲りの無鉄砲」という謎の書き出しに気が付かなければ迂闊と云う誹りを免れないだろう。「おれ」の親は無鉄砲でもなく、損ばかりもしていない。『坊っちゃん』は冒頭から、「おれ」の実の親について考えさせる仕掛けがなされている。
 また『坊っちゃん』に書かれた喧嘩はごく普通のことではなかろうか。漱石自身は人を殺しかけたことがある。ナイフを持っていたのに使わせなかったのが漱石の配慮で、漱石自身は刃物を振り回している。そしてこの時点で「命より大事な栗」というこれまた謎の文言に気が付いていないことになる。

 ダミアン・フラナガンは兎に角出鱈目な漱石論者の一人だが、どうも「命より大事な栗」という謎の文言に気が付いているようだ。阿刀田高はそのレベルにない。また清の贔屓の理由にも気が付いていない。一円札にも気が付いていない。一円札には三韓征伐の象徴たる神功皇后の肖像画が描かれていた。この一円札は帝国主義に向かう日本を象徴するもので、後に出て來る日清談判や祝勝会などの時代性を考える時に見落としてはならない要素だ。御一新を瓦解と表現し、「これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ」と士族の末裔としてふるまう「おれ」は、後に華族や明治の金持ちに対する怒りをぶちまける『二百十日』の圭さんと碌さんに通じる。
 また「なんとなく物理学校を卒業して」と書いてしまうが、漱石全集を丹念に読んでいないのだろうか。物理学校をストレートで卒業することは容易ではなかった。明示的ではないが「おれ」はかなりのエリートである。そのエリートが街鉄の技師になるという流れが見えていないことになる。これは読めていない。
 また「二十三年四ヶ月」にも気が付いていない。物理学校を三年のストレートで卒業しているのに履歴書には「二十三年四ヶ月」と書かれているのだ。何かがおかしいと思わないものだろうか。この二十三は『三四郎』でもなぞられる
 黒板への落書きは「天ぷら先生」ではなく「天麩羅先生」だ。
 そしてなにより阿刀田高は「おれ」の傲慢さに気が付かない。イナゴの件が誤爆である可能性に気が付いていない。延岡が浜辺の街であることにも気が付いていない。勧善懲悪の貴種流離譚にしてしまう。それでいて「深さが足りない」などと書いてしまう。残念ながら足りないのは阿刀田高のおつむの方だ。
 後に『野分』で明示的になる「学生を扇動する教師の存在」というものが見えていない。そして赤シャツと野だに対する天誅が誤爆である可能性にも気が付いていない。「日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろう」にも「不浄の地」にも「こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本のためだ」にも引っかからない。これではとても大の大人が、あるいは作家が『坊っちゃん』を読んだとは認めがたい。
 たとえば「ただ懲役に行かないで生きているばかりである」という現在にも、「おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった」のが物理学校の三年間なので、技師としての生活は呑気な時節ではなく、清に三円を十倍にして返せないのは清が死んでしまったからだが、二十五円の賃金で家賃が六円なら、三十円を返すのは大変だ、ということにも気が付いていないのならば、それは『坊っちゃん』という物語の構造を捉えられていないということだ。「出来るならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日から結婚さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした」というところで、無理に大塚楠緒子を持ち出す必要はない。

 しかし小説の構造が掴めないで、どうして評価が可能だろうか。小説の構造を摑むこと、そうした基本的なことが疎かにされている。疎かにされたまま汚染データだけが増えていく。


【付記】

『虞美人草』の藤尾の死に関しては「ショックによる心臓麻痺、だろうか。美しいヒロインの終焉であった」と正しく読めている。しかし、「大森」の意味には気が付いていない。




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