イザベラ・ディオニシオの『女を書けない文豪たち』を読む① やはりそのくらいにしか読めないか
日本人でさえ殆ど読めていないのに、イタリア人の読みに文句をつけても仕方がないだろうとも思いつつ、やはり違うものは違うと書かなければ気が済まない性分なのでつい書いてしまう。「私」が高等学校の生徒であることはいいだろう。ただ書いていないだけだ。そしてそのことは大した問題でもない。問題はここだ。
この「実に」「見付け出した」のニュアンスがどこかに行ってしまった梗概が実に多い。というよりそうでないものが見つからない。これを
と勝手に読み換えてしまうから筋が見えなくなる。比較してみれば漱石がこの出会いを特別なものとして強調していることは明らかであろう。
明確に探していたわけでもなかろうが、やはり「先生」は「実に」と強調するくらい発見されたのである。「ふと姿が目に入る」というのとは全く意味が異なる。
この読み間違いは致命的で、ここが解らないと、ついこうやってしまうわけだ。
きっかけは「先生」を追い回していた「私」がやや強引に作ったものだ。「ひょん」ではない。
積極的に攻めている。「ひょん」ではない。「見付け出した」のふりと「私」の積極性が見えていないと、この仄めかしをスルーしてしまいがちだ。
ここでは私が「先生」と過去に縁があった、知り合いででもあったかのように仄めかされている。しかし「先生」は「私」の顔には見覚えがない。つまり顔は違う。ここに『明暗』で言われる「生きたままの生まれ変わり」という概念を持ってくると話がピタリとはまる。
この「私」と「先生」の年齢差が案外少ない点のみを根拠に「生きたままの生まれ変わり」説を突っぱねる人もいるようだが、それならば
この「私にとってすこぶる不得要領」の意味を説明して貰いたいものだ。
言葉一つ一つを大切に読んでいかないと、漱石作品で人は簡単に迷子になってしまう。「実に」を読み飛ばした人には『こころ』はちんぷんかんぷんな話であろう。
そんな人のためにいい本がある。
見つけ出してほしい。
[付記]
こういうところで驚く人は、そもそも『三四郎』なんて作品にも引っかかっいない可能性が高いね。
要するに美禰子は不義の子のように仄めかされているけれども、本当に不義の子かどうかは曖昧なのだ。
一郎も健三も父親の実子かどうかははなはだ怪しい。しかし少なくとも二人とも疑惑には辿り着いていない。それは役者だからだ。読者なら気づこう。『坊っちゃん』の「おれ」みたいな人は読者に向いていない。
悪いことは言わない。素直に本を買おう。話はそれからだ。
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