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イザベラ・ディオニシオの『女を書けない文豪たち』を読む① やはりそのくらいにしか読めないか

 主人公の「私」は、知り合いの誘いに乗って鎌倉に遊びに行くが、その人に急用ができてしまい、一人ぼっちで取り残される。そして海辺あたりをぶらぶらしているうちに、ふと「先生」の姿が目に入る。ひょんなきっかけから「私」と「先生」が言葉を交わし、個人情報の取り扱いに関してそこまでカリカリしていなかった時代だったことも相まって、「私」は「先生」に住所を教えてもらい、東京で会うことになる。

(イザベラ・ディオニシオ『女を書けない文豪たち イタリア人が偏愛する日本近現代文学』株式会社KADOKAWA 2022年)

 日本人でさえ殆ど読めていないのに、イタリア人の読みに文句をつけても仕方がないだろうとも思いつつ、やはり違うものは違うと書かなければ気が済まない性分なのでつい書いてしまう。「私」が高等学校の生徒であることはいいだろう。ただ書いていないだけだ。そしてそのことは大した問題でもない。問題はここだ。

私は実に先生をこの雑沓の間に見付け出したのである。

(夏目漱石『こころ』)

 この「実に」「見付け出した」のニュアンスがどこかに行ってしまった梗概が実に多い。というよりそうでないものが見つからない。これを

ふと「先生」の姿が目に入る。

(イザベラ・ディオニシオ『女を書けない文豪たち』)

 と勝手に読み換えてしまうから筋が見えなくなる。比較してみれば漱石がこの出会いを特別なものとして強調していることは明らかであろう。

みつ・ける【見付ける】 (動下一) (1)探していたものを発見する。見いだす。 (2)見慣れる。「―・けない人がいる」

新辞林

 明確に探していたわけでもなかろうが、やはり「先生」は「実に」と強調するくらい発見されたのである。「ふと姿が目に入る」というのとは全く意味が異なる。

 この読み間違いは致命的で、ここが解らないと、ついこうやってしまうわけだ。

ひょんなきっかけから「私」と「先生」が言葉を交わし

(イザベラ・ディオニシオ『女を書けない文豪たち』)

 きっかけは「先生」を追い回していた「私」がやや強引に作ったものだ。「ひょん」ではない。

ひょん-な [1][0] (連体)
思いがけないさま。意外な。奇妙な。「―所で出会う」「―ことから知りあう」

大辞林

 或る時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱ぎ棄てた浴衣を着ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向きになって、浴衣を二、三度振るった。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間から下へ落ちた。先生は白絣の上へ兵児帯を締めてから、眼鏡の失くなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛の下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
 次の日私は先生の後につづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。

(夏目漱石『こころ』)

 積極的に攻めている。「ひょん」ではない。「見付け出した」のふりと「私」の積極性が見えていないと、この仄めかしをスルーしてしまいがちだ。 

 私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時暗に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。

(夏目漱石『こころ』)

 ここでは私が「先生」と過去に縁があった、知り合いででもあったかのように仄めかされている。しかし「先生」は「私」の顔には見覚えがない。つまり顔は違う。ここに『明暗』で言われる「生きたままの生まれ変わり」という概念を持ってくると話がピタリとはまる。

 この「私」と「先生」の年齢差が案外少ない点のみを根拠に「生きたままの生まれ変わり」説を突っぱねる人もいるようだが、それならば

 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳ですか」といった。
 この問答は私にとってすこぶる不得要領のものであったが、私はその時底まで押さずに帰ってしまった。

(夏目漱石『こころ』)

 この「私にとってすこぶる不得要領」の意味を説明して貰いたいものだ。

 言葉一つ一つを大切に読んでいかないと、漱石作品で人は簡単に迷子になってしまう。「実に」を読み飛ばした人には『こころ』はちんぷんかんぷんな話であろう。

 そんな人のためにいい本がある。

 見つけ出してほしい。

[付記]

 こういうところで驚く人は、そもそも『三四郎』なんて作品にも引っかかっいない可能性が高いね。

 要するに美禰子は不義の子のように仄めかされているけれども、本当に不義の子かどうかは曖昧なのだ。

 一郎も健三も父親の実子かどうかははなはだ怪しい。しかし少なくとも二人とも疑惑には辿り着いていない。それは役者だからだ。読者なら気づこう。『坊っちゃん』の「おれ」みたいな人は読者に向いていない。

ことに語学とか文学とか云うものは真平ご免だ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 悪いことは言わない。素直に本を買おう。話はそれからだ。

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