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芥川龍之介の『奇怪な再会』をどう読むか④ 「私」って誰?

 優れた作家の作品と云うものは二回読ませる力を持っている。というのは嘘で、大昔ある大手出版社の編集者は「小説は一回しか読まれません」と断言した。多分その時私が「二回読ませる小説を書きたいんですよね」みたいなことを言ったからだと思う。しかしその直ぐ後くらいに平野啓一郎さんの『日蝕』が出て、あれっと思ったんじゃないかとおもう。多分『構造と力』と『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は購入者の半分も読んでいないと思う。実は「小説は0.5回しか読まれません」というのが本当の所ではなかろうか。

 芥川の『羅生門』などは教科書にも載っているらしくてそれこそ何億人もの人が「読んだ」つもりになっているのだろうが、実際には「読んだ」と云えるレベルの人は一人も存在しない筈だ。

 私は今、『奇怪な再会』を読みかけている。これまでに何とか「読んだ」というレベルに達した芥川作品の中にはまだ『奇怪な再会』は含まれない。一応『あばばばば』『歯車』『河童』はまだまだ曖昧ながらなんとか「読んだ」というレベルに達したのではないかと思う。それでもまだまだ見落としがあるかもしれないので、 

 これで終わりではない。まだ続きを書くかもしれない。『地獄変』『女』『温泉だより』『魚河岸』はその手前にある。もう一つ物足らないので、まだ「眺めた」に毛の生えた程度だ。ちょうど『奇怪な再会』は『杜子春』『蜘蛛の糸』『アグニの神』『死後』『悪魔』『お辞儀』『不思議な島』『寒さ』『少年』『十円札』レベルにある。

 なぜまだ「読んだ」と云えないのか。
 それは何となく粗筋はつかんだようだが作品の肝が見えてこないからだ。

 実際には書かれていないお蓮の殺人、赤い地に金の龍の刺繍のある支那服で剃刀を振り回し、鮮血が白い犬に浴びせかけられる絵が、まだ全然リアルに浮かんでこない。そういうことがあったかもしれないと意識の方では考えるのだが、それは飽くまで空疎な理屈で、脳は絵を結ばない。
 これで「読んだ」と言ってしまうと、粗筋もつかめていないのに解説してしまう評論家並みにみっともないと思うのだ。

 もし私が『行人』論かなんか書いていて、あらすじを読み違えていて、こんな記事を読んだらお顔が真っ赤っかになると思う。これは恥ずかしい。舌嚙んで死んじゃいたくなる。
 だからもう少し『奇怪な再会』の肝の部分について考えてみたい。

 これまで書いてきたように『奇怪な再会』にはいくつものふりと落ちがあるように思われる。そのいくつかは重なり合い、シンプルな構造を採らない。芥川作品の多くは肝の部分に逆説を持っているので、一応前回までの所では、「私の国の人間は、みんな諦めが好いんです」がふりで、ならば剃刀を振り回せば落ちだろうというようなところを指摘した。しかしどうもそれだけではないように思えるのだ。

 最後はKが語り手で誰か聞き手が存在するような『河童』と同じような構造になっているとも書いた。ところがこのKの立場と云うのは、かなり独特なのだ。

「その時分から私は、嫌だ嫌だと思っていましたよ。何しろ薄暗いランプの光に、あの白犬が御新造の寝顔をしげしげ見ていた事もあったんですから、――」
 婆さんがかれこれ一年の後、の友人のKと云う医者に、こんな事も話して聞かせたそうである。

(芥川龍之介『奇怪な再会』)

 よくよく読むと話者は「私」であり、最初に現れるKと云う医者は語り手ではない。聞き手である。

 そこで「私」? となる。

 ならなかったら単なる眺者である。そもそも『奇怪な再会』はお蓮を主人公にした三人称の小説ではなかったのかと今更のように混乱したふりでもして見せなければ、読者に近づく資格はあるまい。

 実はこの「私」はわざわざ五章の終わり、今引用した文章のところでいきなり現れる。このやり方はまさしく漱石譲りだが、「私」を四章隠すというやり方は漱石ですらやっていない。

「あの白犬が病みついたのは、――そうそう、田宮の旦那が御見えになった、ちょうどその明あくる日ですよ。」
 お蓮に使われていた婆さんは、の友人のKと云う医者に、こう当時の容子を話した。

(芥川龍之介『奇怪な再会』)

 これが二回目の「私」だ。これが十章の頭。つまりお蓮を主人公にした三人称の小説ではなかったのか、という思いこみは私の単なる「うっかり」などではなく、明確に意図された芥川の印象操作の結果なのである。どうも芥川は読者の脳みそを試している。

「かれこれその晩の七時頃だそうだ。――」
 今までの事情を話した後、の友人のKと云う医者は、徐ろにこう言葉を続けた。

(芥川龍之介『奇怪な再会』)

 三度目の「私」が十六章。なんという知的なひねりだ。まさかここまでやられてこれを単なる偶然とかミスとして無視する馬鹿はあるまい。
 ここを摑まないで『奇怪な再会』を読んだとは言えないというところの私の感覚も下手な謙遜や悪ふざけではないことがそろそろ理解できたことだろう。芥川は明らかに読者の脳を騙そうとしている。

 そしてなんとこれっきり、「私」は出てこない。

 そこでもう一度「私」? となる。

 どうもこの「私」はKという医者の友人という以外の身体性をこの作品の中ではもたない。つまりどこの誰とも整理が付かない。しかし「私」が登場する以上「お蓮が本所の横網に囲われたのは、明治二十八年の初冬だった」という語りから、神の視座による三人称の語りではなく、「私」の語りであり、伝聞により構成された記録だということになってしまう。
 しかも五章も読まされてから。

 この『奇怪な再会』が脳を騙すような作品であることはうすうす気が付いていた。それでも騙されていた。なんせ「私」が出てくるのは五章、十章、十六章の三回だけで、それで終わりって……。「私の国の人間は、みんな諦めが好いんです」がふりで、ならば剃刀を振り回せば落ちだなんてとんでもない勘違いだ。

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