掻けば何時も片目鰻や五月雨
解らないところを何とか突き止めた句もあるが、相変わらず解らない句というのもある。例えばこの句、五月雨は解る。ごぐわつあめと読ませている。解らないのはこれが大正八年九月二十四日に詠まれていることだ。九月に降る雨は九月雨であり五月雨ではない。
次に片目鰻が解らない。
調べると、小説が一つ伝説が二つ見つかる。
しかしそこにちなむような引っかかりが見つからない。なにしろ
掻けば何時も片目鰻や五月雨
この「掻けば何時も」が何のことかわからない。誰が何を掻いているのか。
どの意味に捉えても絵が浮かばない。しかしこの句には、
と前があり、
一もとの桔梗ゆらぐや風の中 三汀
と久米が詠んでいるので、ここは「掻く」と書いてあってもその意味は、まさにスクラッチで、
この描くという意味なのではないかと考えてみる。そうすると久米が素直に「風の中に一本の桔梗が揺らいでいるようだ」と詠んだのに対して、我鬼先生は「君が画を描くといつも片目鰻のような訳の分からないものが出てくるな五月雨」と桔梗を片目鰻に置き換えたものではないかという感じが何となくしてくる。あくまでも何となくである。桔梗は六月から秋口まで咲くので、何でも濃い紫の花が描いてあれば桔梗でよかろうというわけではなく、普通は「一もとの」にならず群れて咲く。従って久米の見たものがどんな絵なのかということも怪しい。
そして九月二十四日の五月雨と片目鰻がやはり基本的に解らないので、これは訳の分からない句となる。
訳が分からないながら何かをひっくり返そうとした句であり、解らせようとしていないひねくれた句であることは確かだ。
※昨日 ↑ この本を買ってくれた人ありがとう。と言ってもnote民にそんな人はいないか。