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金閣寺は最中か? 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む⑤

 それでも最大の欺瞞はあなた自身の中あるのではなかろうか。あなたは仕事中にこっそり何を見ているのか。

 三千八百円の本を買ってしまったあなたは、これが典型的なダメな理論だとは気づきたくない。

 私が読んできたたいていの文芸評論は、この本が指摘する注意すべき事柄に一々当てはまるので面白い。

①定義の誤解・失敗はないか
②無内容または反証不可能な言説
③難解な理論の不安定な結論
④単純なデータ観察で否定されないか
⑤比喩と例話に支えられた主張

 これまでのところ平野啓一郎の『三島由紀夫論』はこうした指摘を免れない。それなのにあなたはただ信じたくない。疑うことさえ恐れてロジカルであることさえ拒否している。

・〈天皇〉が正確に定義されていない。正統ではない北朝の天皇でありかつ昭和天皇個人のことなのか、ありうべき天皇のことなのか、天照大神のコピーとしての天皇なのか、現在は存在せず創り上げなければならない天皇なのか……。
・〈金閣〉を無定義の天皇のメタファとする仮定内での議論なので、〈金閣〉は天皇のメタファではないという批判の余地がない。
・時系列での三島の天皇観を整理せず、敢えて晩年の天皇観を「潜伏していたもの」としてそれ以前の作品解釈の中に挿入するので、話が無理に複雑化されている。少なくとも『仮面の告白』に〈天皇〉を持ち込むのは無理がある話だ。『仮面の告白』においては主人公の肉体的な問題を捉え切れていないことから結論が曖昧。(三十一歳の人気作家が「僕、今度金閣寺を天皇に見立てて小説を書いてみようと思うんだ」と言ってきたら編集者は皆止めるのではないか。)
・十代の三島はありきたりに天皇を小ばかにしていた。その時々で三島の天皇観は変化している。三島は戦後日本の成功を肯定的に評価していた。
・議論の中心がそもそも比喩。

 もう一度確認してみよう。

 三島由紀夫の欺瞞とは、

① 金閣寺が再建されたのちに『金閣寺』を書いたこと

 こう私が書いたことで、あなたは少しほっとしたかもしれない。つまりあなたはうすうす気がついていて、そのことを意識に上らせることを恐れていたのだ。

 もし平野啓一郎の言うように〈金閣〉が天皇のメタファだとしたら、三島由紀夫の再デビュー作はタイミングからして『仮面の告白』ではなく『英霊の聲』であるべきではなかったのか。

 天皇の人間宣言が昭和二十一年、昭和二十四年に『仮面の告白』を書く必然性はまるでないのである。
 あるいは『金閣寺』の時点でもかなり遅いとしても『英霊の聲』を書くべきではなかったのか。

 ごく普通に書いてあることを読めば『仮面の告白』や『潮騒』は天皇とは無関係で無関係で、太宰治が『十五年間』において「天皇陛下万歳!」と書いたのを読んでさえ、三島由紀夫は「随分厭味だな」とくらいにしか感じなかったであろう。

 成分を分析すると由来が解るということがある。人間もDNAを解析してルーツを調べる。おそらく今後「三島由紀夫の天皇論」は、全テキストの言語解析、要素解析により正確に行われることになるだろう。

 しかしとりあえず手っ取り早く仮説を示すとすると、三島由紀夫が「天皇」という問題に気がついたのはおそらく深沢七郎の『風流夢譚』を読んだ時であろう。そのとき三島由紀夫は『憂国』を書いた自分が天皇というものに対して全く何の興味も持っていなかったことに気づかされたのだ。その裏返しのような不敬な話を書きながら深沢七郎の『風流夢譚』の中に、

・天皇の御製に「み吉野」と南朝の歌を詠ませたこと
・英国製の天皇という皮肉があること
・自衛隊の蜂起という発想があること
・マリーアントワネットのような皇太子妃のあおむけの斬首があること
・三種の神器を無意味な玩具とみなす発想があること
・皇太子妃の着物の柄は金閣ですか銀閣ですかと尋ねられるが天照大御神のお食事を司る豊受大神宮とさらし首の名所四条大橋であること……

 などの、まるでその後の三島天皇論の見本のようなアイデアが詰まっていたのだ。三島が読んだとされるテキストの中に、後の三島天皇論に見出される特徴がこれほど多く含まれるものは外に無い。全く何の先入観もなしに『憂国』を読み直してみるといい。『風流夢譚』と引き比べた時『憂国』がいかに死とエロティシズムに耽溺していて無思想であるかということがよく解る。

 深沢七郎を知らない外国人に三島由紀夫の未発表作だと偽って『風流夢譚』の英語訳を読ませたら、出来過ぎであるというものはあるかもしれないが、これがいかにも三島的なものであると認めないものはいないだろう。

 しかし欺瞞はあなた自身の中にあると私は書いた。
 この時点で何故クリックして本を買わないのか。そこに自分自身に対する胡麻化し、無意味な屁のツッパリはないか?

 あなたは既にこれがただ事ではないことに気が付いているのではないか。

 天皇の無害化、という南泉斬猫の解釈が少し撚れているというところまで昨日書いた。

猫(=〈金閣〉/天皇)は、人を惑わす危険の象徴である。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 この論理において天皇は猫になる。

 猫はどこにでもいて寺もどこにでもある。しかし天皇は一人しかいない。つまり単純なデータ観察で否定される論理である。

 猫はどこにでもいる。猫は天皇ではない。

 しかし平野はあくまでも天皇にこだわる。そして『金閣寺』の中に散りばめられた象徴に対して様々な意味づけを与え始める。

 決して変えることの出来ないセクシュアリティ(生得的条件)を〈絶対者〉としての天皇の不変性に接続しようとする三島の発想が認められる。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 概ね無理のない解釈に天皇の文字が挟み込まれた瞬間に論理がめちゃくちゃになる。

・天皇が不変なら英国製の天皇批判などありえない
・天皇が猫なら天皇は絶対者ではない
・生得的条件と念押しして言ってみるのはセクシュアリティが変えられるものであることを理解しているからでは?

 いや、天皇だけではないな。

こうした柏木の認識に対して、溝口は後に、「ばかに仏教的なんだね。」と語るが、この「仏教」観は、『豊饒の海』の三島の唯識理解にそのまま連続している。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 そんなわけはないのだ。三島由紀夫は『豊饒の海』を書くために阿頼耶識の研究を重ねた。それは直感だけで解るようなものではなく、相当にお勉強しなければ解らない理屈だ。『金閣寺』の時点ではまだ三島は禅宗の公案をもてあそぶ程度の知識しかもっていなかった。阿頼耶識という新しいおもちゃを知って、嬉々として語り始めるのは最晩年である。

 あるいはまた〈天皇〉を持ち出さないことによっても破綻している。平野は確かに「乳房が金閣寺に変貌した」と引用している。

 ……。

 ……。

 ん?

 そこには例の、

乳房(=〈金閣〉/天皇)は、人を惑わす危険の象徴である。

 という謎ロジックは現れない。天皇は乳房だとは言わない。言わないことで「猫が乳房だとさすがにおかしいよな」と気が付いていることは見え見えである。気が付いて書かない。これが欺瞞である。

 しかし天皇が乳房ではないことをあなたは既に知っていたのではないか?

 ならばやはり欺瞞はあなた自身の中にある。

 そもそも金閣が美や有衣子や乳房や猫や天皇でなければならないのは何故なのだろうかという問題はさておく。

 私もここで三島由紀夫の最晩年の天皇観と『金閣寺』を敢えて重ねてみる遊びをしてみて、いったん休憩する。

 平野は、

 事前にカルモチンと小刀とを購入したのも「実録」に基づいている。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 こう書いて最中と菓子パンを無視する。

 結論から言おう。

 最晩年の三島由紀夫にとって天皇とは菓子パンである。  

 三島由紀夫は天皇と関の孫六を二つ抱えて小刀細工をした。天皇は三島の行動を解釈しようとする者に対して菓子パンのように機能した。みな「あいつは腹が減っていたんだ」という代わりに「あいつは憂国の義士だったんだ」と人間らしさを嗤った。
 しかしこんなに解りにくい菓子パンというものはない。天照大神のコピーで天孫の子孫ですらなく、正統な南朝の系譜にはなく、英国製で、ないから無理やり創り上げるもので、最中と交換しうるものなのだ。

いずれ菓子パンは、私の犯罪を人々が無理にも理解しようと試みるとき、恰好な手がかりを提供するだろう。人々は言うだろう。
「あいつは腹が減っていたのだ。何と人間的なことだろう!」

(三島由紀夫『金閣寺』)

 しかし最中があることで菓子パンがさらに分かりにくいことは言うまでもない。それは焼きそばパンや焼きチーズソーセージパンではなかろう。しかしおそらくアンパンではない何かなのだ。

 もしも『金閣寺』に天皇が書かれていたとするならば、それは有為子でも猫でも乳房でもなく菓子パンである。もしも『金閣寺』に天皇が書かれていたとするならばという前提なので、書かれていない以上このロジックは反証不可能であろう。


[余談]

 最中と菓子パンを食べたら、喉が渇くだろう。溝口はいつ水を飲んだだろうか? 


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