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石原千秋の『三四郎』に関する読みの水準について① 誤読である。

 『三四郎』は全体が十三章からなる。第一章が状況の途次で、第二章から第十三章が東京が舞台である。これなら枠小説ではないのだが、第一章から第十二章までが三四郎視点なのに、最後の十三章の前半が三四郎のいない場面になっていて、どうやらこの第十三章は三四郎目線ではないのだ。つまり、いわゆる全知視点である。そこで『三四郎』は〈状況の途次——東京が舞台——全知視点〉という変形された枠小説だと言えるかもしれない。

(石原千秋『近代という教養 文学が背負った課題』筑摩書房 2013年 p.110)

  うどんより太いそうめんはない。ちくわぶの原料は竹輪ではない。その程度の意味に於いて石原千秋は近代文学の枠組みに属するも、最も近代文学2.0に近い存在と言っていいかもしれない。引用部分でさえドキッとする人もいなくもないだろうからひとまずそう言っておいても良い。目線と視点のすり替えなどなかなか気がつきにくいところではあるからだ。

 しかし夏目漱石の小説は既に見てきたように「主人公目線」と「全知視点」という単純な割り切りでは説明しきれないものなので、この点は改めて毎日の歯磨き習慣のように念を押しておきたい。

 寐ていても通過駅が数えられる。

 まず冒頭から完全なる三四郎目線ではなかったわけです。三四郎の顔面の前方を基準に、もう一つの別のカメラがあり、そちらは「全知」というほどでもない話者の目線なのです。

 細かく見ていくとこのカメラのスイッチは何度か見られます。三四郎が寝ているところを観察しています。そして疲れてもいて、カメラとは呼べないような身体性も獲得しています。

 これがどういう理屈なのかは判然としませんが、三人称の小説の主人公の顔面にカメラを一台据え付けている訳ではない、という構造がある事だけは間違いありません。
 そしてこうしたカメラの配置やスイッチングの手法は『三四郎』において特異的に表れたものではなく、『二百十日』や『明暗』など作品ごとにさまざまなやり方が工夫されています。

 私には『二百十日』のやり方は単なる遊びに見えますが、『明暗』となると何だか認識論に関する思考実験に思える面が感じられ、また現在の映像作品に近い細かいカメラ割りが俗に感じられる気も致します。

 しかしドローン・カメラなどと言い出せば『吾輩は猫である』にしてからが低空飛行ドローン撮影のようなものなので、一旦話は『三四郎』に戻します。ドローン・カメラの話を掘りたい人は『明暗』から芥川の『誘惑』に進んでください。

 私が石原千秋を評価しているのは次のような問題の捉え方に真摯な姿勢がみられるからです。

 ではなぜ最終章、つまり「おわり」の第十三章が主人公の三四郎の目線を離れ、全知視点となったのだろうか。それは、この小説の視点構造の仕掛けが読者から見えないようにしている、現在進行形の出来事に理由がある。

(石原千秋『近代という教養 文学が背負った課題』筑摩書房 2013年 p.110)

 ここで石原は読者に隠されているものがあることを明確に指摘している。美禰󠄀子の結婚はもう三四郎の感知するところではないので見えない。しかしそう書く一方で石原は野々宮と美禰󠄀子の別れはしっかり把握しているのだ。

 先に述べたように、『三四郎』における事件(出来事)は野々宮宗八と里見美禰󠄀子の別れにある。おそらくは結婚を考えていた二人が、感情のもつれや野々宮宗八の経済状態などからしだいに感情がこじれ、別れることになったのであろう。 

(石原千秋『近代という教養 文学が背負った課題』筑摩書房 2013年 p.110)

 かなり解りにくく書かれている二人の別れを、まずは明確に捉えて言い切っている前段はとろろ昆布のお握りの筋目のように見事である。後半は「おそらく」と推測であることを明言しているので、敢えて詳細には批判しない。

 結婚を考えていたとするならば蝉の羽根のようなリボンという贈り物は初手過ぎるように感じられますし、

 感情のもつれというよりは空中飛行機の下りで示された考え方の違いが大きいように思われますし、

 野々宮宗八の経済状態というものはさして明確に示されていませんが、この考え方をとる人は多いようですね。

 大岡昇平は美禰󠄀子は銀行員と結婚したと勘違いして、小谷野敦もつられてしまいました。このつられた件はご本人からコメントを頂いて確認しております。

 ただむしろ明示的なところで、美禰󠄀子の下駄がちびていたり、鼻緒の色が左右で違っていたりと、案外美禰󠄀子は倹約家というようなことが示されているので、金に走ったと思い込む要素というのは十分にあるわけです。

 石原は美禰󠄀子の結婚について小森陽一の「好きでもない男と結婚して終わる」という解釈を示しながら、このように書いてしまう。

 しかしだからといって、美禰󠄀子の結婚相手が「好きでもない」相手かどうかはわからないのだ。たぶん、三四郎には結婚相手が里見美禰󠄀子にふさわしいようにはとても見えなかった。もっと正確に言えば、それまで自分が知っていた男たちとは違って見えただけの話である。それ以上のことは、憶測に過ぎない。つまり、三四郎がその男に違和感を抱いたらしいことと、里見美禰󠄀子がその男を「好きでもない」ことはイコールではないのだ。

(石原千秋『近代という教養 文学が背負った課題』筑摩書房 2013年 p.111)

 最初の一行はその通り。「たぶん」の後が少しおかしい。

 向こうから車がかけて来た。黒い帽子をかぶって、金縁の眼鏡を掛けて、遠くから見ても色光沢のいい男が乗っている。この車が三四郎の目にはいった時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見つめているらしく思われた。二、三間先へ来ると、車を急にとめた。前掛けを器用にはねのけて、蹴込みから飛び降りたところを見ると、背のすらりと高い細面のりっぱな人であった。髪をきれいにすっている。それでいて、まったく男らしい。
「今まで待っていたけれども、あんまりおそいから迎えに来た」と美禰子のまん前に立った。見おろして笑っている。

(夏目漱石『三四郎』)

 これが三四郎目線であれば、立派な男らしい人で、一般論として美禰󠄀子にはふさわしくないとはいいがたい。寧ろこの場面、三四郎は圧倒とまではいわないが、負けは感じているように思う。

 それからついでに言えば、美禰󠄀子はよし子が「好きでもない男と結婚して終わる」のは確かなのだ。

「さっきの話をしなくっちゃ」と兄が注意した。
「よくってよ」と妹が拒絶した。
「よくはないよ」
「よくってよ。知らないわ」
 兄は妹の顔を見て黙っている。妹は、またこう言った。
「だってしかたがないじゃ、ありませんか。知りもしない人の所へ、行くか行かないかって、聞いたって。好きでもきらいでもないんだから、なんにも言いようはありゃしないわ。だから知らないわ」

(夏目漱石『三四郎』)

 どうもよし子はこの男を知らないので好きでも嫌いでもない。ただし美禰󠄀子は兄の友達という関係性に於いてこの男を既に知っていたわけで、男の態度からすれば少なくとも嫌われているようには見えない。

「そう、ありがとう」と美禰子も笑って、男の顔を見返したが、その目をすぐ三四郎の方へ向けた。
「どなた」と男が聞いた。
「大学の小川さん」と美禰子が答えた。
 男は軽く帽子を取って、向こうから挨拶をした。
「はやく行こう。にいさんも待っている」
 いいぐあいに三四郎は追分へ曲がるべき横町の角に立っていた。金はとうとう返さずに別れた。

(夏目漱石『三四郎』)

 この書きようは、「自分より立派なライバル」のふるまいというものを十分に意識しているように私には思える。

 ただしこの男の見合い写真はついこの間までよし子のところにあったわけなので、結果としてこの男と美禰󠄀子が結婚したことは、ねじれにねじれて野々宮宗八に対してはかなり厭味な仕返しの意味もなくはないと言えるだろう。(そしてこの男こそが色黒で反っ歯の、好きでもない女と結婚したと言えるかもしれない。)

 野々宮さんは目録へ記号しるしをつけるために、隠袋かくしへ手を入れて鉛筆を捜した。鉛筆がなくって、一枚の活版刷りのはがきが出てきた。見ると、美禰子の結婚披露の招待状であった。披露はとうに済んだ。野々宮さんは広田先生といっしょにフロックコートで出席した。三四郎は帰京の当日この招待状を下宿の机の上に見た。時期はすでに過ぎていた。
 野々宮さんは、招待状を引き千切って床の上に捨てた

(夏目漱石『三四郎』)

 野々宮は結婚披露宴の記憶に苦々しいものを持っているようだ。この男の名前は伏せられているが、その名と顔は野々宮の記憶にもあり、あてつけられてはいたわけだ。

 従ってもしかしたら美禰󠄀子は結婚相手のことも好きではあったかもしれないけれど、「好きだから結婚した」という風に素直には受け取れないというのが小森陽一の感覚なのではないか。それはメール便で三種のナッツ詰め合わせ850グラムを受け取りたいけれどポストの差込口の幅が二センチしかなくてナッツの袋の厚みが四センチなので受け取ることが出来ないのと同じ理屈なのではなかろうか。

 石原の「三四郎がその男に違和感を抱いたらしいこと」は作中のどこからも読み取れないので誤読である。

[余談]

 教師をしていて自分の得意分野で生徒から誤読を指摘されたら、一瞬めまいがするんだろうな。

 これが二段三段と繰り返されたら、精神崩壊しそう。

 早く気がついた方がいい。

 めまいのするこの世界に。

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