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夏目漱石の『こころ』をどう読むか④ 『こころ』の結末

『こころ』の結末


 今回も少し厳しいことを書きますので、気の弱い人は読まないでください。しかし『こころ』について感想文を書いた人は読んでください。noteの参加者はみな「何かを伝えたい」という立ち位置にあると思います。言論の自由というものがありますので、誰が何を書いてもいい訳です。誹謗中傷はいけませんが、面白おかしいことは好きに書けばいい訳です。しかし実際には「迷惑」な場合もあります。古いことを調べようとして、ゲームやアニメのキャラクターばかりが上がって来て迷惑することがあります。また今世界中の様々な言語で「夏目漱石はアイラブユーを月がきれいですねと翻訳した」と呟かれていますが、これはもう「間違い」と言ってもしょうがない状況ですね。どうしてもなかったことにはできないでしょう。こういう情報は雑音です。雑音のために本当の事が伝わり難くなっています。

 夏目漱石の『こころ』に関する感想文もそうです。noteの中でプロを自認し、夏目漱石の『こころ』に関する感想文を公表している人がいます。例えば、

 この人は教育者でもあるようなので少し厳しいことを指摘します。先生を卑怯者呼ばわりするのは間違いです。好き好きの感想ではなくて間違いなのです。

 いろいろと間違えていますが、今回は「結末が見えていない」ところにフォーカスして説明します。『こころ』は珍しく「私」が書き手として現れますね。この形式は『騎士団長殺し』と同じです。『騎士団長殺し』の話者は肖像画家なのに小説を書いていることになります。『こころ』の「私」はまるで新聞小説を書いているようです。過去の出来事を回想しています。ですから冒頭は先生の遺書の後にあります。

 私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉うれしく思っている。人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。(夏目漱石『こころ』)

 冒頭のすがすがしさ→先生を全肯定する「私」が『こころ』の現在です。この直感が後になって事実の上に証拠立てられたという意味が摑めていない人が殆どです。ここはまずは「先生の遺書によって」と理解して良いでしょう。「静によって」という解釈もあり得ますが、まず「私」が先生に近づかなければいけない証拠があったということを理解しましょう。

 驚くべきことに柄谷行人をはじめとした多くのプロの読み手が「話者はなんとなく先生に惹かれて近づく」というような頓珍漢な解釈をしています。調べていくと江藤淳も「何となく」と書いていました。しかしですね「私は実に先生をこの雑沓の間に見付け出したのである」と書かれていますね。未知の場合、「この雑踏の間に見かけた人が先生でした」でしょう。

 私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時暗に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。(夏目漱石『こころ』)

 今、もう漫画やドラマでタイムスリップや生まれ変わりはどんどん安直に使われているので、現代人にとってこのふりは完全に「生まれ変わり」を示していると言っていいでしょう。Kの許しを得なければ、先生の罪悪感は消えないでしょう。この「私」を先生の生きたままの生まれ変わりとしても冒頭のすがすがしさはない訳です。それに自分の事を愛さずにはいられない人と書いては可笑しいでしょう。

 この大きな構えを私は読書メーターでこう書いています。

解説している人が全然読めていません。 「私」は懐かしみから先生に近づきます。そして先生が特別だった理由は先生の遺書によって事実の上に証拠立てられます。つまり「私」はKの生まれ変わりのように仄めかされていることになります。先生の長い遺書はさしたる来歴も生活もない「私」が過去を追体験する物語として読むことができます。

 作品としての『こころ』の結末は、先生が全肯定される現在にあります。先生の遺書を読まなければ「人間を愛しうる」「自分の懐に入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない」というロジックは見えてきません。

 実に多くの高校生が「結末が暗かったな、でも考えさせられた」という素直な感想を述べています。そういう人を捕まえていちいち絡もうとは思いません。しかし「何かを伝えたい」という思いがあり、「自分には誰かに何かを伝える資格がある」と信じているならば、時にはその資格を確認する為に、自分が書いているものが頓珍漢になっていないか確認する必要があるのではないかと思います。柄谷行人の『漱石論集成』を読むと、殆ど誤読と曲解ばかりで読んでいるこちらが恥ずかしくなります。『行人』が分裂しているなどと書いて、こちらも結末が見えていません。

 解りやすい比較として『こころ』と『行人』は『坊ちゃん』と同じようなの形式だと考えて貰えばいいと思います。作品が書かれている時点で「おれ」は清に借りた三円を返したくても返せないし、碌な者にもなっていない、清は死んだ、この構造が解らない人はまあ、いないと思いますし、解らないで感想文を書いている人もいないと思います。しかし外国人の感想文を読むと直感が後になって事実の上に証拠立てられたという辺りを正確に捉えている人は皆無でした。まあ、日本人にも見かけませんが、一人だけ気がついた人がいて、コテンパンに否定されていたのには呆れました。

 『こころ』も『坊ちゃん』と同じ構造で先生は既に死んでいて回想の形式です。先生の死の直後でもなさそうです。その位置は、

 この本に書きました。『行人』の一郎が既に死んでいることに気が付いている人もいないようです。勝手に分裂させているからです。今からでも近代文学をやり直そうという人はまずこの本からお読みいただきたいと思います。










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