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先行研究は必ずあるのか?

 人文学系の学生なら一度ならず「先行研究は必ずある。独自研究はあり得ない。兎に角先行研究を徹底的に調べて、その上で書きなさい」という宗教を押し付けられた経験があるだろう。しかしこの宗教は明確に間違っている。そんなことを言われたら「ちゃんと調べましたか?」「あんたは預言者か」と突っ込んでよいと思う。理系の学生が同じようなことを言われることはなかろう。独自研究は一つその結果を示すだけでよく、先行研究の引用の必要はない。
 そもそそも「先行研究は必ずある。独自研究はあり得ない。」とは誰がどのように確認した事実なのだろうか。そのような迷信が幅を利かせていること自体が人文学というジャンルの絶望的な「枷」となっていないだろうか。
 例えば「夏目漱石」と一言でも言及した論文をすべて読まなくてはならないとしたら、それほど夏目漱石を涜すルールはないだろう。
 夏目漱石作品の多くはそのあらすじにさえ到達していない論者によって既に徹底的に涜されてきた。そんなものを「先行研究」として参照すること自体が、夏目漱石を涜すふるまいである。
 例えば夏目漱石の『こころ』の話者「私」がKの生まれ変わりのように仄めかされており、静を生かすことで乃木静子が殺されたことを批判しているという私の見立ては、いくら探しても「先行研究」からは見つからない。この見落としだけであらすじは根本から異なる。つまりこれまで書かれてきた夏目漱石の『こころ』論は、「先行研究」という立場を喪失してしまうのである。
 例えばと書いたが、これは私の中にわずかに残る気の弱さの表れであり、これまでこのnoteを読んできた人にとっては明らかなように、これはそもそも「例えば」の問題などではあり得ない。私はこれまで夏目漱石作品に限らず、手当たり次第に、徹底して独自研究・独自理論を展開してきた。独自研究・独自理論にはそもそも意味がないとする立場からは、ほぼ意味のないふるまいである。しかしそもそも独自研究・独自理論はあり得ないとは、いかなるオカルトな予言であろうか。そういう人はありとあらゆる人文学知見を極めた上でそう言っているのだろうか。自身の未熟な経験だけを論拠に早すぎる一般化という認識のバイアスに陥っているだけではないのか。

 論の中身ではなく形式だけを否定しても意味はない。「北朝鮮のミサイル発射は断じて容認できない」という形式だけの発言と形式だけの抗議に何の意味もないのと同じである。

 私はこれまで夏目漱石、森鴎外の乃木静子殉死批判、初期谷崎潤一郎作品の政治的な志向に関する指摘など、おそらくこれまで誰も述べてこなかったことを書いてきた。ここで「おそらく」と云わねばならないのは、單にすべての文書を読むことが不可能だという事実によるものである。既に書いたように、谷崎潤一郎の政治的な志向に気が付いていたかもしれないほとんど唯一の存在として、風巻景次郎を次世代デジタルライブラリーに見つけて調べてみたが、「億兆の国民」や「足利尊氏」などの具体的な要素に気が付いている痕跡は確認できず、明確に「先行研究」であるという判断は出来なかった。

ただ、ウイキペディアでは、

昭和初期の風巻による中世文芸の見直しにより、文壇にも谷崎潤一郎『吉野葛』など中世ものの傑作が生まれた。保田與重郎『後鳥羽院』などもあり、南朝を吉野朝と呼ぶ南朝正統論と相まって、昭和戦前の文化全体に与えた影響は大きい。古今、新古今の見直しは、昭和後期の大岡信、梅原猛、菱川善夫らによって引き継がれている。(ウイキペディア「風巻景次郎」より)

 ……と、谷崎潤一郎の政治的な志向に関していかにも「風巻の影響下で谷崎潤一郎の北朝批判文学が生まれた」かのように書かれているのも事実だ。これはむしろ初期谷崎作品の政治的志向の見落としである可能性が高いが、少なくとも谷崎潤一郎が徹底して政治的なものを拒み、理想の女(あるいは自身の変態性欲)を求め続けたとする一般的な谷崎論とは明確に異なる。

風巻の中世史に関する指摘としては、

 承久乱後、後堀河・四条両帝が相ついで立たれたが、四条天皇は幼くて崩御になり、皇子がおいでにならぬので、九条道家は順徳上皇の皇子をお立てしようとした。ところが北条泰時の反対でそれが実現せず、土御門上皇の皇子が即位せられた。これが後嵯峨天皇であった。これ以後北条氏の力は皇位継承にまで常に干渉いたすようになった。後嵯峨天皇は英邁であらせられたが、幕府の力で即位されたので、関東に対し御謙遜になっておった。後、第一皇子(後深草)が即位されたが、後嵯峨院は第二皇子(亀山)の活溌を愛せられて、これに位を譲らしめられ、ここに二流が分立することとなった。後嵯峨院は亀山天皇を愛される余り、さらにその皇子を皇太子に立てられた。後深草院はこれにはさすが御不満で、父院の崩御の後、自ら院政を摂とられんとして、亀山天皇と対立の形になり、状を幕府へ訴えられた。幕府は後嵯峨院の皇后大宮院おおみやいんに上皇の御遺志をうかがったところ、亀山天皇の御筋を立てるべしとのことだったと答えられたので、亀山天皇の親政となり、ついでその皇子が即位された。後宇多天皇がそれである。両統の臣下も各々二つに分れて反目するに至った。幕府はそこで、後深草院に同情申し上げて、その皇子を後宇多天皇の皇太子に立て奉り、ついで位につかれたのが伏見天皇である。(「中世の文学伝統」風巻景次郎)

 ……といったもので、「だから北朝の天皇など認めない」というような過激なものではない。この指摘をもう少し過激にまとめたのがウイキペディアの「後嵯峨上皇」の記事である。

 後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にして、治天の君を定めずに崩御した事が、後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが日本史における南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。

 この「後南朝」というようなことをどうも風巻は書いていない。『教科書に於ける南北正閏問題の由来』などをみても、そこに風巻の直接的な関与は確認できなかった。

 つまり谷崎作品が「現実的手法」で書かれていると評した風巻の真意が「谷崎は言論統制の影響下で北朝の天皇批判を時代小説の中に上手に隠した」というものであるというような深読みをすることが出来なかった。あるいはウイキペディアに書かれているような、谷崎文学への中巻の影響は確認できなかった。無論まだ私は『吉野葛』について何も書いていないので、これからさらに読み進めるうちに何かが出てくるのかも知れないが、むしろ谷崎がデビュー当時から一貫して、政治的な毒を吐き、天皇を批判してきたことに関する指摘は見つからない。

 そしてこうして調べていくうちに解ったことは「比較文学論」とか「文献学」に走るよりは、むしろシンプルな「作品論」に拘った方が良いのではないかということだ。他人の書いたあれこれを調べて解ったのは、結局「見つからない」ということだけだった。存在しない先行研究を探している時間が惜しい。それよりも確実に真摯に作品と向き合う方が何倍も意味のある事だろうと思う。それくらい近代文学は誤読されてきた。誤読の自由などない。最低限ここまでは読めていなければならないという一定のラインは引かれるべきであり、「あらすじ」を読み間違えた作品論などお話にならない。「あらすじ」を読み間違えて作家論などとんでもない。『虞美人草』の藤尾が毒薬を飲んで自殺したという人に夏目漱石を語る資格はない。しかし私の前にはその程度の似非先行研究しかない。反面教師だけがいくらでも見つかる。


そっちか。






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