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夏目漱石の『こころ』をどう読むか⑥ 書いてあることを読む

書いてあることを読む

 間違った解釈、感想文、批評はその殆どが「書いてあることを読まないで、書いていないことを勝手に付け足す」というスタイルをとります。明治の精神を「明治十年代が持っていた多様な可能性の事だ」と柄谷行人が書く時、「その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。」という個所は読まれていなかったことになります。読まないで書いています。しかしこんな出鱈目なミスがありますかね?

 これは柄谷行人自身の明治批判を、乱暴に作中に投げ込んでしまった結果であると考えられます。明治十年代までは内戦で多くの人が死に、明治二十年代には内戦が治まって近代国家が出来上がってしまったことが、おそらく左翼思想家である柄谷行人には不満なのでしょう。柄谷行人だけではありませんが、多くの左翼思想家が左翼活動の挫折から文学に逃げ込みます。文学は良くも悪くもそうした吹き溜まりとしての一面を有しています。

 こういう人たちはいわゆる馬鹿ではありません。算数などで計測すれば優秀でしょう。しかしどうも真面ではありません。知能の使い方を間違っています。すべての文学を精神分析とマルクス主義思想で分析・評価しようとするのは間違いです。勿論『吾輩は猫である』『趣味の遺伝』『坊ちゃん』『三四郎』『それから』には、いかにも柄谷行人が好きそうな「近代国家の形成に関わる批判じみたもの」が滑稽に形を変えて現れることは確かなのです。「大和魂の歌」「狗の皇軍」「日清談判」「入鹿じみた心持」「幸徳秋水と警官」…。しかし柄谷行人はむしろそれを読みません。『三四郎』の新潮文庫の解説は柄谷行人が書いていますが、全く「入鹿じみた心持」に気づいている気配がありません。気が付かないで「青春小説の金字塔」と書いて誤魔化しています。これは結果的にはそう頓珍漢な感想ではありませんが、ネジが一本抜けている修辞です。

 皆さん、私が「書いてあることを読まないで、書いていないことを勝手に付け足す」などと書いたのを読んだ時、まさかね、そんなことはあり得ない、コイツの勘違いか何かだよ、本当に馬鹿だ、と思ったのではないですか。でも馬鹿はどちらでしょうか。柄谷行人は自分のとんでもない間違いに気が付かないままこの世をむにゃむにゃ……。私にはそれが本当にお気の毒なのです。誰かちょっと教えてあげたらいいのだと思うのですが、みなこのまま穏やかな最期を望んでいるのでしょうか。まあ、今更本当の事を知らされても困るのは間違いないのでしょうが、それにしても知らないままよりはいいとは思うのです。

 しかしこれは本当の話なのです。私は夏目漱石の作品群に関する国内外のかなりの量の感想文を相当な時間をかけて読んでみましたが、柄谷行人一人が間違っているという訳ではありません。noteがそういう世界ですね。国民に「発信して貰いたいこと」をnoteで募集しているのに、3000人がスキしていて、コメントが143しかつきません。みな読まないでスキしています。兎に角みな読まないのです。読まないけれど、自分の書いたものは読んで貰いたいのです。この文化が日本文学全体を覆っています。かなりの人が「書いてあることを読まないで、書いていないことを勝手に付け足す」という病に陥っています。

 これは多田道太郎が前世紀に書いていることですが、読まないで書く者が増えて文壇がなくなり賞壇ができた、という状況が極限まで悪化しているように思います。

 雑誌や本は読まないけれども、自分が書いたものを載せてもらうために各種何とか賞に投稿するという人が最近は随分とふえてきて、「文壇」がなくなって「賞壇」ができたみたいな感じがしますね。
(『「ノルウェイの森」-放火論(五)』/多田道太郎/『群像』1997年9 月号より)


 この翌年『海燕』か何かで、適当に継ぎ接ぎで書いたという小説が新人賞を取り、蓮實重彦が断末魔の叫びとかなんとか評していなかったでしょうか。審査員の誰かが、新人賞の応募には文芸誌の応募券添付にした方がいいんじゃないかとも言っていました。『群像』の新人賞に応募する人が『群像』を読まない、『文学界』の新人賞に応募する人が『文学界』を読まないからです。noteはその勢いをさらに加速させています。柄谷行人を頂点とする文学界のピラミッドが出来上がり、「書いてあることを読まないで、書いていないことを勝手に付け足す」というスタイルがもはやデフォルトになっていると見做して良いのではないでしょうか。むしろ今は、noteにおいて、どれだけ読まないで勝手なことを書くことができるか、という遊びが大喜利のようにして競われているようにさえも思えます。

 例えば冒頭付近で「玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷を一つ越さなければ手が届かなかった。」とありますよね。しかし先生宅では自家製のアイスクリームが出ます。「私」は食事の後二杯もお替りします。先生の家はなかなかハイカラなのです。今だと、何、アイスクリームごときと思うでしょう。この時期の自家製アイスクリームはかなりの高級品です。先生宅は余裕がある上にかなり贅沢な家だったことが解ります。

 解りますって、解ってました?

 解っていたのに、『こころ』を「愛と友情」の話だと見做していたのですか?「金さ、君」と書いてあるのを読まないで、勝手に「愛と友情」の話にしてしまっていませんでしたか?

 つまりこうした比較の中で、漱石は先生の豊かさを強調していた訳です。これは書かれていることです。確かに先生は奥さんに、「奥さん、お嬢さんを私に下さい」「下さい、ぜひ下さい」「私の妻としてぜひ下さい」と言っていますが、ここには愛していますの一言もありませんね。好きなので下さいではないのです。よく考えて貰うことにしたのであって、ここに経済的要素がないとは書かれていません。しかしここに「愛のために友情を裏切った」という解釈を加えてしまうのも「書いてあることを読まないで、書いていないことを勝手に付け足す」というスタイルですよね。

 勿論先生は以前よりお嬢さんにプラトニックな愛を抱いていましたが、奥さんに自分の財産を掠め取られるのが嫌で、後一歩踏み出せなかった訳です。しかしKが先に踏み出すかもしれないと考えた時から、あれこれ考えて、奥さんの財産をKに奪われないためには何としてもお嬢さんを貰わなくてはならないと計算した訳です。これは盲目な愛ではなく、計算です。前半で恋は罪悪ですよ、というふりがありましたが、このふりと「金さ、君」が合わさるクライマックスに「私の妻としてぜひ下さい」があります。これを恋愛だけの話にしてしまうのが駄目な人です。そんな人には広瀬すずと広瀬アリスの違いが分かりません。オードリー若林と「いきものがかりのボーカル」の違いが分かりません。寧ろ純粋にお嬢さんを愛していたのはKだったのかも知れません。

書いてあることを読まないで、書いていないことを勝手に付け足す」そんなことはない、絶対に自分はそんなことはしていない、と本当にまだ、言い切りますか? 

 海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切を脱ぎ棄てる事にしていた。(夏目漱石『こころ』)

 作中ではこのように書かれています。ロジックを見ていきましょう。「私」は水着を持っていません。そして一切を脱ぎ捨てます。つまり「私」はあたかも全裸であるかのように仄めかされていることになります。事実は書かれていないので解りません。そのように仄めかされていているだけです。また、それに呼応するように先生の水着も描かれません。頭に手拭いを巻くだけです。

 ここで皆さん「書いてあることを読まないで、書いていないことを勝手に付け足す」ことをしていませんか? 勝手に「私」や先生に水着を着せていませんか? 「私」はロジックの上で全裸です。二人は二丁も沖に出ますので、浴衣を着ていたら溺れます。明確には書かれていませんが、二人は全裸である可能性があります。

 二丁ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼い海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より外になかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂った。先生はまたぱたりと手足の運動を已めて仰向けになったまま浪の上に寝た。私もその真似をした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
 しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促した。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路を浜辺へ引き返した。(夏目漱石『こころ』)

 多くの人が感心する眩い世界ではありますが、ここで紺色や黒の水着を勝手に足してしまうのは罪悪でしょう。そんな曖昧な雑音によって夏目漱石が必死に書いた傑作が汚され続けてきたのですよ。

 徒に二人のオチンコは太陽に曝されていますよ。それは感覚ではなくロジックです。そりゃオチンコを晒せば愉快でしょう。このオチンコを晒したい願望は『明暗』にも現れますね。修善寺の大患以降、漱石は股間を大勢に曝します。どうも漱石は晩年に露出の喜びを覚えたようです。

「夜になって一寝入して眼が醒さめると、明かるい月が出て、その月が青い柳を照していた。それを寝ながら見ているとね、下の方で、急にやっという掛声が聞こえた。あたりは案外静まり返っているので、その掛声がことさら強く聞こえたんだろう、おれはすぐ起きて欄干の傍まで出て下を覗いた。すると向うに見える柳の下で、真裸な男が三人代る代る大きな沢庵石の持ち上げ競らをしていた。やっと云うのは両手へ力を入れて差し上げる時の声なんだよ。それを三人とも夢中になって熱心にやっていたが、熱心なせいか、誰も一口も物を云わない。おれは明らかな月影に黙って動く裸体の人影を見て、妙に不思議な心持がした。するとそのうちの一人が細長い天秤棒のようなものをぐるりぐるりと廻し始めた……」
何だか水滸伝のような趣きじゃありませんか
「その時からしてがすでに縹緲たるものさ。今日になって回顧するとまるで夢のようだ」(夏目漱石『行人』)

 『行人』ではこうして若々しい肉体への羨望が書かれます。仄めかされた若い裸は猥褻な悪戯ではないでしょう。

書いていないことを読まない

 多くの人の『こころ』の感想文では、実際には書かれていないことを読んでしまっている様子が見て取れます。全員ではありません。しかしかなり多くの人は話を自分で拵えてしまっています。

 先生はKの自殺に罪悪感を覚え、世捨て人のようになってしまった…

 悪気なくつい、そんな解釈をしてしまっている人がかなりいるように思います。先生が可笑しくなった原因を全部Kに押し付けています。しかし先生は急におかしくなるのではありません。先生は卒論を書き、卒業し、結婚して、段々おかしくなります。勉強が手につかなくなれば落第していますよ。

「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
「それがどうして急に変化なすったんですか」
急にじゃありません、段々ああなって来たのよ
「奥さんはその間あいだ始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変って行かれる源因がちゃんと解るべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛いんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何遍あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」(夏目漱石『こころ』)

 先生は段々おかしくなります。それを「急に」と記憶してしまう人が案外います。記憶が書き換えられてしまうようです。自分なら…友人が自分の裏切りのために死んだら、急におかしくなるだろうというロジックが「段々」を「急に」に置き換えてしまうのでしょうね。そうでなくても先生が可笑しくなる原因を全部Kに押し付けようとする人は多いですね。良く読めば解かりますが、先生を可笑しくするのは静に纏わりつくKの黒い影です。つまり見ているものは静、見えているものはKの黒い影、二つが一緒になって先生を苦しめます。だから真砂町事件が事件なのです。

 案外多い勘違いに『坊っちゃん』の「おれ」が五分刈りの坊主頭だ、というところに気が付かないで長髪だと思い込んでいるというものがあります。Kは坊主でもいいんです。寺の子ですから。医者も坊主でいいですよね。しかし「おれ」は二十三にもなって教師なのに何故坊主なんでしょうね。解りますよ。二宮君のイメージですよね。津田は二か月も散髪に行きません。これは長髪でいいんです。「坊っちゃん」で画像検索するとなかなか坊主頭が見つかりません。こういうところではないでしょうか。どうも書いてあることを読まないで勝手に想像を加えています。

 清の事を考えながら、のつそつしていると、突然おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子を取って床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな鬨の声が起った。おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。(夏目漱石『坊っちゃん』)


 この「のつそつ」も今ではあまり見ない言葉ですね。ちゃんと意味が解っていましたか? 今日林先生の「言葉検定」で「まんじりともせず」が出題されていましたね。この「のつそつ」は「まんじりともせず」ではなく体が動いていても意識はぼんやりしている可能性があるので、足音と鬨の声が完全に夢ではないとは言い切れませんね。「まんじりともせず」なら完全に夢ではないと言い切れます。だからこうした疑いが可能なのです。

 どうも変だ、おれは小供の時から、よく夢を見る癖があって、夢中に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢で尋ねたくらいだ。その時は三日ばかりうち中の笑い草になって大いに弱った。ことによると今のも夢かも知れない。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 こうした記述が可能になるには「のつそつ」である必要性があったわけですよね。「まんじりともせず」ではいけないわけです。「のつそつ」がちゃんと読めていた人はどのくらいいましたか? 「月は正面からおれの五分刈りの頭から顋の辺あたりまで、会釈もなく照らす。」を覚えていた人がどのくらいいますか? オンライン資格確認では患者側のディスプレイに資格情報そのものが表示されないことを知っている人はいますか? それが違法なな事だと気がついた人が一人でもいますか?










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