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江藤淳の漱石論について⑤ 『明暗』の評価をめぐって

 江藤淳は『夏目漱石』(それにしてもものすごい題名だな、論でさえなく一考察でもないんだ)で夏目漱石の『明暗』を「近代日本文学史上最も知的な長編小説」「真の近代小説といい得る作品」と激賞しながら、次第にその評価をしぼませていく。晩年には漱石が小さく見えていたそうであり、『江藤淳は甦える』によれば、昭和四十九年「失敗しているかどうかは議論がわかれるでしょうが、くたびれ果てて、もう倒れちゃった」といっているという。これは少し早すぎるな。

 この台詞にはどうも聞き覚えがある。それは言わずもがな、三島由紀夫が死の一週間前の対談で、『豊饒の海』の次回作について語った言葉である。三島由紀夫は、「もうくたびれちゃって何もない」と消え入るように語ったのではなかっただろうか。

 しかし何度『明暗』を読み返しても、その中断の先には洋々と広がる漱石作品の可能性しか見えない。ばたばたと物語を閉じる気配もなければ、落ちをつけようという構えも見えない。むしろ終わる感じがしないというのが書かれている範囲のものに対する私の印象である。深刻なものに向かう様子も見えない。そしてくたびれ果てた感じがまるでない。漱石の体調を考えればこれは信じがたいことだが、さまざまな新しい試みを織り込みながら、何かに迫っていく感じがある。結局回収されることはなかったが布石はいくつも仕込まれていた。

 また例えば『それから』における代助の逡巡や後ろめたさのようなものも見えない。なんなら妄想の中でしつこい小林を殴り倒している。人妻を温泉宿まで追いかけて、何か因縁をつけようとして危機感がない。しかも徒手空拳である。目的も見えない。冒頭で疑われた自由意志もまだ落ち着かない。吉川夫人の支配下にあるようでもあり、清子に引き寄せられているようでもあり、案外裏のないお延との距離の取り方もまだ見えない。もし漱石にあと十年の寿命があったなら、小島信夫の『別れる理由』のようなくどくどとした関係が続いたのではないかとさえ思わせる。そして何よりも衰えが見えない。私はここでいささか乱暴な仮説を立てる。まだ大学生の溌溂とした江藤淳に対して、昭和四十九年の江藤淳は既にくたびれていたのではなかろうか。

 なにせ『明暗』の設定そのものは二か月も散髪しない痔瘻の三十男が、流産した昔の女、人妻を温泉宿にまで追いかけるという話なのである。しかも自分には従順な妻があり、一応職もある。現代ではまず定職があり二か月も散髪に行かない男というのはつるっぱげ以外には考えづらいが、とにもかくにも漱石はそういうものを遺作の主人公に据えた。このどこが知的なのかといえば、大食以外の大罪を描いたこと、秀子の大演説、浮遊する視座、決定論への懐疑…など様々な要素があるも、この一作が際立って秀逸とはやはり言い難いのではなかろうか。私はむしろどれか一つといわれれば『こころ』を採る。親子、夫婦、男と男、男と女、親戚の人間関係が実に濃やかに描かれており、生まれ変わりの仄めかしの効果や、時代の事件と絡める手際も見事だ。『明暗』には残念ながら、そうした要素がまだない。

 それにしても江藤淳の「近代日本文学史上最も知的な長編小説」「真の近代小説といい得る作品」「失敗しているかどうかは議論がわかれるでしょうが、くたびれ果てて、もう倒れちゃった」という論評のブレはいささか大きすぎはしないだろうか。このブレを救う理屈は「若気の至り」と「老化」によるものだとも疑がわれかねない。

 学生時代には捉えられた夏目漱石の大きさが晩年に近づくころには小さく見えてしまう。ここで変化しているのは漱石作品ではなく、江藤淳自身であることはむしろ疑い得ない。昭和四十九年と言えば、『薤露行』を巡って大岡昇平との論争が起こる前年である。四十二歳、「若気の至り」とも「老化」とも到底受け止められない時期である。

 そもそも『明暗』はその主題に於いて、「知的」であるかどうかは意見の分かれる作品である。仮に「二か月も散髪に行かず、痔瘻の、さして金のない、平社員の、洋書を読む気力のなくなった既婚者の三十男が、昔別れた恋人を追いかけて温泉宿迄行く話」と読めば、どこが「知的」なのか解らなくなる。「知的」というからには『明暗』が非決定論と自己判断を巡って書かれるパースペクティブ実在論の世界だとは認めていたのだろう。

「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」(夏目漱石『明暗』)

 貰おうと思わなかった嫁を貰うとは、津田はとんだおっちょこちょいだが、「北九州監禁殺人事件」やオウム事件など、マインドコントロールというものがあることは現代では誰もが知っており、吉川夫人のマインドコントロールのようなものが清子にも及んでいたと仮定した場合、これはただみっともない男の未練の話ではなくなる。世界から完全に独立した自己、負荷なき自己がありえないことをマイケル・サンデルによって確認するまでもなく、人は完全に自由ではない。

 三人は妙な羽目に陥った。行きがかり上一種の関係で因果づけられた彼らはしだいに話をよそへ持って行く事が困難になってきた。席を外す事は無論できなくなった。彼らはそこへ坐ったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。(夏目漱石『明暗』)

 確かにこういう人間関係はある。代助が三千代一人のために世界と敵対するような大事ではなく、むしろもっと些細なことで人は自由ではない。

 お延は黙っていられなくなった。しかしお秀はお延よりなお黙っていられなかった。彼女を遮ろうとするお延の出鼻を抑えつけるような熱した語気で、自分の云いたい事だけ云ってしまわなければ気がすまなかった。「嫂さん何かおっしゃる事があるなら、後でゆっくり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもう直です。そんなに長くかかりゃしません」(夏目漱石『明暗』)

 こうして会話はコントロールされる。感情も相手の言葉に操られる。また世界は見え方そのものである。そのことを漱石はステッキの突然の出現と、お延には見えて津田には見えない雀でコンパクトに言い表す。

「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀よ。雀が御向うの宅の二階の庇に巣を食ってるんでしょう」
 津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「洋杖」
 津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸を開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫の後に跟いて沓脱から上った。(夏目漱石『明暗』)

 ここで漱石のカメラはドローンのように津田の周りをぐるりと巡る。津田が振り返らなければお延が沓脱から上ったかどうかは見えないのだ。この見え方としての世界の成り立ちは、小林の幻影によってパースペクティブ実在論とまで呼ばざるを得なくなる。

 津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介なこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙てた。するといったん緒口の開いた想像の光景はそこでとまらなかった。彼を拉っしてずんずん先へ進んだ。彼は突然玄関へ馬車を横付にする、そうして怒鳴り込むような大きな声を出して彼の室へ入ってくる小林の姿を眼前に髣髴した。
「何しに来た」
「何しにでもない、貴様を厭がらせに来たんだ」
「どういう理由で」
「理由も糸瓜もあるもんか。貴様がおれを厭がる間は、いつまで経ってもどこへ行っても、ただ追っかけるんだ」
「畜生ッ」
 津田は突然拳を固めて小林の横ッ面を撲らなければならなかった。小林は抵抗する代りに、たちまち大の字になって室の真中へ踏ん反り返らなければならなかった。
「撲ったな、この野郎。さあどうでもしろ」
 まるで舞台の上でなければ見られないような活劇が演ぜられなければならなかった。そうしてそれが宿中の視聴を脅やかさなければならなかった。その中には是非とも清子が交じっていなければならなかった。万事は永久に打ち砕かれなければならなかった。
 事実よりも明暸な想像の一幕を、描くともなく頭の中に描き出した津田は、突然ぞっとして我に返った。(夏目漱石『明暗』)

 少し前世間大評判だったマルクス・カブリエルの新実在論は、個々人が見ているものだけではなく、妄想や仮構も実在するとしている。夏目漱石の実在論はもう少し控えめで、『文芸の哲学的基礎』においては、それぞれの主体のなかでそれからそれへと移る意識に上がるものだが、ここでは想像が不安を煽ることをもって、現実にはないものが事実よりも精神に訴えかけることを描いている。小説などそもそも現実ではないが、仮に津田に感情移入していた読者の中には「小林め、余計なことをしやがって」と小林に怒りを感じる人もいたのではなかろうか。

 さて、こうして見てきた範囲内でも『明暗』がいかに「知的」な作品であり、「くたびれ果てて、もう倒れちゃった」作品とはみなし難いと言えるのではなかろうか。「くたびれ果てて、もう倒れちゃった」という言葉の真意は解らない。解らないが『明暗』は「くたびれ果てて、もう倒れちゃった」作品とはみなし難い。もし江藤淳の聖化をしないとしたら、「近代日本文学史上最も知的な長編小説」という最初の評価こそ掘り下げるべきではなかろうか。

【付記】

会話というものは、本質的に、何らかの似た者どうしがあまり間を置かないで発言し合うという因襲に支配されているので、それゆえに本質的に伝達できないことが非常に多い、と感じる。が、そんなことはまったく感じない人のほうが多い(から因襲が維持されている)ようだ。

 こう永井均がツイートしている。会話は本質的に伝達の役割を果たさないのではなかろうか。あるいはツイートもnoteも。





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