小説の神様と云えば志賀直哉で、芥川も「私の好きな作家」として「志賀氏」の名前を挙げている。実際芥川も志賀直哉のような小説を書きたいと考えながら書けなかった。この問題は芥川が夏目漱石のような小説をついに書かなかったことと併せて実に興味深い。
ところで「小説の神様」にはもう一人いた。
この「小説の神様」は抽象的な概念でいわば「ミューズ」のようなもの。抽象的な存在である。
しかし、この「小説の神様」は志賀直哉個人に与えられた称号である。こっちは「サッカーの神様ペレ」というようなもの。具体的な存在である。
※この「系統から云へば漱石の流れを汲んでいます」という評は実にふらふらとしている。どう汲んでいるのかが解らなくて何十年と考えているけれど、それがわからないのに。
高見順にとってまずは志賀直哉が「小説の神様」であったが、後に横光利一が別の意味で「小説の神様」となる。この高見順の位置が絶妙なものではなかろうか。実際横光利一は志賀直哉から多くのものを学んだ一人ではあろう。
確かに短篇小説の巧者としてのモーパッサンの評価は一定して高い。殆ど悪口が聞こえてこない。しかし「小説の神様」と云えばやはり志賀直哉というのが、歴史的な正解なのだろう。その歴史に確かに横光利一は割り込んでくる。
蓮田善明は志賀直哉をすっ飛ばして横光利一を持ち上げている。
どういうわけか蓮田善明は志賀直哉に対して「小説の神様」という言葉を使わないばかりか、褒め殺しのようなねじれた褒め方をしている。流石は三島由紀夫の師の一人だ。
こうして見て行くと、現代においてこそ「小説の神様」と云えば志賀直哉だが、一時その持ち上げられ過ぎていたところに軌道修正が這入り、代って横光利一が持ち上げられ、いつの間にかまた横光利一も落とされたようなところがありはすまいか。
文芸報国会かなんかのために横光利一を「ふーん」した文学史があったとすると、それはなんとも勿体ないことだ。
この時点で蓮田善明の近代文学に関する興味は夏目漱石と横光利一から森鴎外と永井荷風にシフトしている。そうでなければ夏目漱石を「ふーん」していた三島由紀夫は殴られていた筈だ。
一個人の中でも作家の評価は変化する。
ここで名前が挙がった作家たちを私は皆嫌いではない。そう言えば伊藤整なんかはあの猛烈なブームが去って、最近はあまり取り上げられないが、「ふーん」していた人たちがまた持ち上げるんじゃないかな。
[余談]
横光利一は必ず再評価されるだろうね。伊藤整も西脇順三郎も。
丸亀製麺も蕎麦を出せば人気が出るだろう。